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近すぎて見慣れない山。はるか遠くの見慣れた山。

昨年5月に記したメモより。

実家から、窓の外を眺めたとき、はるか遠くに見える山が紀州山地だということに、先日はじめて気がついた。

神戸の海と山に挟まれたほんなわずかな平地で、しぜん太陽の射す海側に気もちが向くのと、うしろの山(六甲山系)はまなざすには近すぎるのとで、日常生活では、六甲山系よりもむしろ、遠く紀州の山影のほうが視界に入りやすい。

ほぼその上で生活しているにもかかわらず、視界に入らない六甲山系に感じる馴染み深さはどこか抽象的。いっぽう、訪れたことすらない紀州の山々に感じる馴染み深さは、日々の生活で見慣れている分、現実的。

近すぎて見慣れない山と、はるか遠くの見慣れた山。
物理的距離と心理的距離は必ずしも一致しないのかもしれない。ひとが土地ととりむすぶ関係は、案外複雑だ。

さらに言えば、六甲山系をあたりまえのように「うしろ」と認識しているのもふしぎなことだ。海沿いの埋立地のあたりから六甲山系を眺めるときは、ただ山を眺めているだけなのに、「うしろをふりかえる」気もちになっている。

京都にあっては、必ずしも北が「うしろ」ではないし、特定の方角の山を「ふりかえる」と感じたことは一度もない。

冬がおかしい。

今朝ようやく、はつゆきらしきものが舞うのを見た。
来週末、バレンタインの京都は最高気温21度の予想。

冬がおかしい。

近年、札幌を契機にサンクトペテルブルク、オタワと、都市の雪景を撮り続けているが、
そこには、雪をとおして風景を見る、不可視性云々、といった関心とは別に、

もしかしたら、これからだんだん雪が降らなくなるかもしれない。
雪で覆われた都市は、失われた風景になるかもしれない。
という切迫感がある。

もちろん、そんな状況は全力で回避すべきだと思っているが、すでに近年の京都で雪景を撮るチャンスはほとんどない。
思ったよりもずっと早く、失われつつあるのかもしれない。

見えているのに見えていないこと

15年分のスナップ総ざらえも、あと少し。

ステキと思って撮ったのでは「ない」もの。なんかようわからんけど気になるわと思って撮ったものばかりを集めてみると、自分の関心がどこにあるのかが少しクリアになってきた。

視覚のくせ(エラー)が垣間見えるような場面、画面要素の拮抗状態、前後関係の撹乱をはじめとする識別不可能性。見えなさ。

フェンス(ネット)より手前に突き出ている枝に対しては、立体感や奥行きを感じたりディテールを見ることができるのに、フェンスより奥のものに対しては、奥行きや立体感を感じたりディテールを見ることができない。

むしろフェンスがつくる平面に像がペッタリ吸着されているような気さえする。脳内では面の認識が優先されているのだろうか?

こういった見えているのに見えていないこと。見えなさ。

ふんわり漂うのは沈丁花の香り

ふんわり漂うのは沈丁花の香り。
ついつい惹き寄せられる。

いいにおい。

春のあたたかい陽射しにくるまれるのも心地がいい。

あるときはストライプに、あるときはまだらに落ちる光と影。
くぐるようにそこを通り抜けるのもまた、楽しい。

ふと思う。
シャッターを切るときのトリガーは、必ずしも視覚によるものではない、と。

いま、ここ、にわたしの感覚を総動員しているのに、
写真におさめて「視覚に縮約する」とはどういうことだろうか。

スタイル

大きめのサングラスをかけ、ファーのついたジャガードのコートをはおり、チェックのパンツに黒いブーツ。
実家に向かう途中、交差点で信号待ちをしている女性があまりにかっこよくて目を奪われる。
久しぶりに惚れ惚れしたのは、自分の母親より10も15も年上であろう白髪の女性。

そう。芦屋や岡本のあたりでは、ものすごくスタイリッシュな70代、80代に出会うことがある。
長年ずっと手を抜かずにお洒落をしてきた集大成だから、色もバランスも素材も抜群。そして何より板についている。
そういう方に巡り会うと一日中嬉しいきもちになる。

「ファッションは他人の視線をデコレートするもの」というのはほんとうだと思う。

その前日、祖母が愛用していた薄いグレーのポンチョをはおってみた。
とても上品なグレーだけれど、今の自分の髪は黒すぎて似合わない。祖母の綺麗な白髪だからこのグレーが似合ったのだな、と。

白髪だからこそ映えるということもあるのだ。
巷ではアンチエイジングの大合唱だけれど、そういうふうに白髪になる日を楽しみにするのも好いなぁと思う。
祖母のポンチョと、スタイリッシュな白髪女性から、年を重ねる楽しみをいただいた気がする。

神戸、街ブラ

久しぶりに、時間をかけて神戸の街をブラつく。

元町で電車を降りてさっそく昼食。
18種類のスパイスで、水を加えずに煮込んだカレー。
トマトの酸味とスパイスが程よく効いて美味。

中華街をスルッと抜けて、海のほうに向かう。

中華街は意外と人通りがなく、そして、店舗が抜けているところがあることに、少し驚く。

そのかわり、その海側の栄町界隈は、若いひとの出店が多く見られ、活況を呈している。
ターゲットが少し大人向けだし、個性的な店も多い。

楽しいガラクタばかりではなく、良質なものをリーズナブルな価格で扱うお店も発見。
京都ほど土地柄をウリにしてない分、素直な印象を受ける。

数年前に来たときには、こんなにいろいろお店があるとは気づかなかった。
知らない間に、ずいぶんおもしろい街になっているじゃないか。

また遊びに行こう☆

カップルは等間隔か? その2

58カット。歌舞練場前。(の切り抜き)

カップルは等間隔か?

1ケ所広く間が空いてるのは、きっと1組立ち去ったに違いない。

カップルを狙って撮っているわけではないんだけど、映っていると気になるなぁ…。夏の風物詩、現代版の風俗絵巻みたいなところやよね。

托鉢僧と、郵便切手

散歩ついでに、三月書房に足を運ぶ。
遠くに聞こえていた声明がだんだんと大きくなってきて、
寺町二条界隈に托鉢修行のお坊さん数名の声が響きわたる。

少し外に気を向けながら、本を物色していると、
「ほら手分けして、こっちにも来て」と、
リーダー格のお坊さんが指示を出している声が聞こえる。

え…手分け…托鉢修行は分業制やったんか。

妙に現実的で合理的な「指示」がビジネスライクに聞こえてしまって、
なんだか、ありがたみが目減りした感じ。

店を出て、寺町を下がる。

秘仏公開のポスターを見て、
わたしも、作品展示を50年に1度のご開帳にすれば、
どんなスローペースでも仕上げられるやろうし、ありがたみ(!)も増すよなぁ…と、
罰当たりなことをぼんやり考えながら、てくてく、てくてく。

その翌日、ともだちに送る荷物を準備していたときのこと。

いくつか素敵な切手があったのだけれど、
あちこちにペタペタ切手を貼ると、郵便屋さんに迷惑やろうから、
紅葉の切手だけ貼って、あとは現金払いにしようと思って、
1枚だけ切手を貼った荷物を近所の郵便局に持ち込んだ。
荷物を手にした窓口のお姉さんが、うーん、と唸りながら電卓をたたく。

?

「せっかく綺麗な切手はってはるからね。」

そうおっしゃって、チラリとかわいい切手を見せてくださる。
どうも、手もとにある切手のなかから風情のあるものを何枚かつけたそうと思案してくださっていたみたい。何円の切手を何枚はって残りは…という計算をしてはったみたいで、最終的に、京都のお祭りのかわいらしい切手を何枚か貼りたして、あとは普通の切手を二枚ほどはって料金調整というところに落ち着く。どうもありがとう。

結局、当初わたしが遠慮した「あちこちにペタペタ切手をはった荷物」ができあがってしまったのだけれど、それがほかならぬ郵便局員さんの仕業なのが可笑しかった。

ここ三日ほどのできごと。

おいしいおやつみたいにこの本を読んだ。

楽しげな雰囲気が香りたつような表現で、いいな、と思ったのは、
須賀敦子さんの『塩一トンの読書』(河出書房新社 2003)。

仕事として書物に携わりながら、
でも、ときにこういうスタンスで本が読める、というのは、いいなぁ、と、心底思う。

サワイちゃんから「須賀敦子さん、翻訳家で、エッセイも良いんだよ。」とおすすめされていたので、作業のあいまの息抜きに『霧のむこうに住みたい』をひもといてみた。
情景の描写が重すぎも軽すぎもせず、風通しのよい文章だったから、二冊目を手にとった。

タイトルの塩一トンは、須賀さんが結婚したての頃、イタリア人の姑から、「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」と言われたことに由来する。塩一トンをいっしょに舐めるというのは、苦楽をともに経験するという意味らしい。

どの分野にあっても、ひとつことに携わっていると、理想と現実との乖離だとか、苦悩や困難があったりするのだけれど、でも、最後のところで、どちらに転ぶか、は大事なことだと思う。

いろいろあるけれど、それでもやっぱり好き、
というところに転ぶほうが、そうでないよりずっと幸せだし、
それこそが継続してひとつことに携わっていくうえでの、強みではないかと思う。

塩一トンの読書でありながら、「おいしいおやつみたいにこの本を」と言えるこの幸福感が、読むわたしをも幸せなきもちにさせてくれる、と思った。

須賀さんは夙川から芦屋のあたりで育っているので、同郷の人だ。
そう思うと、イタリアの生活を綴ったエッセイでも、彼女の文体には、なにかあのあたり(いわゆる阪神間)の風土、風通しのよさみたいなものがあらわれているような気がするから不思議だ。

ほとんど現実と向き合うだけで精一杯で、かれこれ10年近く、小説、というものをほとんど読んでいなかったけれど、これを機会に、また小説、読んでみようかな。

そう思わせる一冊でした。

食べものの神様に今日も、感謝。

ひどかった鼻風邪がおさまってきたので、パンクの修理に自転車やさんに行く。

もうタイヤ自体がバーストしとるし、タイヤ交換の時期がきている。後輪のタイヤ交換は自信がないので、一度やり方を見せてもらおう、と。(ちなみに、前輪は自分で修理した)

「すいません、修理しているところ、見せてもらえませんか?今度自分で修理したいので。」とお願いしたら、「じゃぁ、教えますから、自分でタイヤ交換されますか?」と店員さん。

願ってもない。

そして、店員さんの指導のもと、およそ1時間ほどで、後輪のタイヤ交換をひととおり終える。細かいノウハウがあるのと、どこがどうなってどう動作するかというしくみを教えてもらえたので、やっぱり自分ひとりでやらんでよかったな、と思う。そもそも、工具が足らんかった。

作業を終えた後、「奥で手を洗ってもらってかまいません。」と言ってもらったので、店内奥まで進むと、店員さんがみなさん揃ってお昼休み。

真っ黒になった手を謎の洗剤でごしごし洗っていると、店長さんに「これ、飲みな。暖まるよ。」と、スープをすすめられる。

おぉ…コンソメスープ。
この荒々しさ、まさしく男の手料理☆

そして、すっかり《自転車屋の店長さんのまかない》をごちそうになって、店員4人と一緒に、世間話なんかしながら、まったり。

おっと。あやうく、立場を忘れるところやった。

修理代をまけてもらった上に、まかないまでごちそうになってしまったので、さすがに恐縮で、簡単に洗いものだけして、店を後にする。その足で、護王神社に寄って撮影現場の下見をしたあと、やっとこさ家に帰りつく頃には、1時間かけて覚えたはずの修理方法は、すっかり食べものの記憶にすりかわっていた。流行りの脳科学がどういうかは知らんけど、記憶なんて所詮そんなもんね。

とにもかくにも、自転車やさん、ありがとう。
そして、食べものの神様に今日も、感謝。

烏丸通り1ブロック分のこと。

晴れてはいたものの、かなり霞んでいたから、撮影は早い段階で断念し、もう一度見ておこうと思った、入江マキさんの個展に向かう。グリーンから青を通り越して紫までの色が印象に残る。

見たそばからはかなく消えゆく夢をたぐりよせるようなこと。
つじつまをあわせたり、輪郭を確定したとたんに崩壊するような世界を、そのまますくうようなこと。

そのあと、芸術センターで開催されているdual pointで、はじめてまともに高木正勝さんの映像を見て、しばらく動けなくなった。何ループくらい見ていただろう。映像でしかつくれない質感。

それから、cococn karasumaで開催されているNY TDC展まで足を運んでみたものの、作品の良し悪しより、展示物の状態の悪さが、気にかかった。

烏丸通り1ブロック分のこと。

坂井さんのふく

寺町を自転車で通り過ぎようとしていたところ、坂井さんとすれ違う。

一見の客なんて覚えてないだろう、と思ったら、
すぐにわかったようで、声をかけてくださった。

そりゃそうだ。
わたし、そのとき、彼のつくったふくを着ていたのだもの。
自分のつくったふくを着ているひととすれ違ったら、そりゃ、わかるやろ…。

お店の外で、着ているふくをつくったご本人と対面するという状況は
ちょっと気恥ずかしい。

追い打ち。
新しい店舗がガラス張りなのを良いことに、
外からうっとりふくを眺めているところを、目撃されていたそうな。

メンズラインばかりだし、
クールな店内にはなかなか入る勇気がなかったの。と、こたえたら、

「僕のいるときに来たらいいよ。」
と、やさしく微笑む。

頑固で筋のとおったふくづくりをされていて、相当気難しいであろうそのひとが、
やさしく微笑んでくれるのが、ちょっと、いや、すごく嬉しかった。

男物で、そのうえかなりハードなのに、
つい、お店の前でぼうっとしてしまうくらい、吊られているふくが美しい。
吊られた状態の造形が美しいと思うふくは、そうは多くない。

ふだんはそんなこと思わないのだけれど、
このときばかりは、男に生まれたかったと思う。

交番のいい仕事

四条大宮交番

前のすまいのときは、よくここの交番の警察官が巡回に来ていました。あやしいたたずまいの堀川マ●ションをぶっそうだと思ったらしく、「こんなところに住んでいたらいけない。」としょっちゅう言われていました。なつかしい。

さて、この交番の前を通るたびに、ええ仕事しとるなぁ…と思っていたのね。

写メなのでわかりにくいかもしれませんが、写真中央、警察署のマークが切り絵です。

きちんと贅沢に生きているのかもしれない。

18時の星がもうすでにくっきり。
つい目を離せず、星を追って歩くみち。

街路を彩る金色の落ち葉。
いちょうの木がこんなにたくさんの葉っぱでくるまれていたなんて。

ささやかだけど、たいせつなこと。
そういうもののつみかさねで、人生をまっとうできたら良いな、と思う。

多くは望まないと決めたけど、
きちんと贅沢に生きているのかもしれない。

ひとこと説法 その2

盆おどり エンマもともに 輪の中へ

近所の願照寺の門前で発見。時季に即した文面。そして、このおおらかさ。素晴らしい。

日本は八百万の神さんが、みんなてんでバラバラにああだこうだ言うて、一神教に比べると、おおらかであると河合隼雄の著書に書いてあったと母が言う。

子ども同士で遊んでいても、あとから来た子に「入れたげない」という意地の悪い子と、「ええやん入れたげようや」というおおらかな子がいたなぁ。学年のさいご、けっきょく人望を集めるのは後者のほうやった。

「盆おどり エンマもともに 輪の中へ」

ほのぼのしとっていいよね。

光景のめくれ

天候のせいでテスト撮影が延びている。晴写雨読だ。

 山の姿によって方位を知ることがなくても、そう、ビル群に視界を遮られた「巨大な密林」とでも言うべき東京にあっても、道に迷うことが少ないのは、目印の建造物から目的の場所まで移動してゆくその途中の光景をからだが憶えているからである。景観というのは、移動という運動のなかでのそういう光景のめくれというかたちで(あるいは、流れるように脇で眼に入っているらしい光景の断続というかたちで)身に刻まれるものであって、けっして正面に立ってこの景観はすばらしいというように感得されるものではないのである。

(『京都の平熱 哲学者の都市案内』 鷲田清一著 2007 講談社 より抜粋)

最近、大通りを歩くとき、しっかりと対面にある景観を確かめるようにしている。

ふだんは進行方向を向いて脇に見るともなく見ている光景を、あらためて正面から直視すると、見知らぬ街にいるかと思うくらい、まったく印象が異なる。脇に見ることと、正面からじっくり見ることはまったく違う体験なんだと実感していたところだ。

正面に立ってこの絵はすばらしいというように感得する、美術の要請する「見る」作法はかなり特殊だと思うから、その正面に立ってじっと見るという作法を、日常の何に適用したら、いちばん違和感があっておもしろいやろう…と、ずっと長い間考えている。

25時の散歩

結局、帰宅は深夜になって。

帰りみち、見上げた空の星の多さについ、
機材を一旦家に置いて、25時の散歩に出かける。

引越してから、夜空を見あげることが少なくなった。

街中は明るくて、暗いところを探すようにふらふら歩き、
銅駝のほうから鴨川に出ると、唐突にひらけた空に、大きく赤い月。
三日月ほどに欠けているのにどうして。

はじめてみる月のその風情に、狼狽。
この月に呼ばれたのかと思うと、こわくなった。

ひとこと説法

正式な名称をしらない。
お寺の入り口の掲示板に書かれている「ひとこと説法」。

京都はお寺が多いのであちこちで目にするのだけれど、けっこうこれが興味深い。
なかには「?」なものもあるのだけれど。

徳もお金と同じく増減する

これは、願照寺の前にあったもの。「お金と同じく」というところに妙な説得力がある。徳の話をするのに、お金を引き合いに出すところがすごい。

毎日通る道には「わかっちゃいるけど、やめられない」というのもある。
タバコか?酒か?ギャンブルか?
そもそも誰に対する言い訳やねん。。。って、わたしはとても好きなんやけど。

あと、三条会に「茶のごとくもまれて味出る人間味」というのもあった。
なかなか個性的。

でも、こういうことばに見えないところで守られながら、
この町のひとは生きてきたのかもしれないな。

Home / Away

ここ数日ずっと寝しなにShinjuku
Buenos Aires
を見ている。

「近所で写真を撮って作品つくるのは作家の怠慢」

という写真家の厳しいことばがずっと頭にあって、どこか遠くに行くことを考えはじめたから、一人の作家のホームタウンで撮る写真と、アウェイで撮る写真とを比べて見てみたい思った。

同じ写真家が撮っているのに、ずいぶん違うものに思える。

被写体の違い、だけなんやろうか。
ShinjukuよりもBuenos Airesのほうが作家のまなざしが自由になっている印象を受ける。

Buenos Airesは、特に見開き2ページの写真の組み合わせ方がおもしろい。

左ページのタンゴを踊る女性の網タイツが目をひけば、
右ページでは黒く濃く焼き付けられた橋脚の複雑な構造体が存在感を示している。
左右のページの被写体がまったく違っていても、どこか共振するところがあって、それがほどよい緊張感をもたらしているのだと思う。

1枚だけを見るのと、2枚を対で見るのは、2枚のたとえ片方を見ているつもりでも全然違う経験なんだと思う。

と、じいっと見ていると、寝そびれて起きそびれる。
明日は雨だから今夜はよふかしもいいかな。

scale

万博周辺にむかし住んでいたマンションや通っていた小学校があるから、20年ぶり、そのあたりに寄り道してから、みんぱくに向かう。

当時はとても長く感じた駅からの道のりが、驚くほど短く感じられたり、広かったはずの駐車場がちっぽけに感じられたり、子供の頃の印象よりずっとコンパクトな古巣のたたずまいに、すこし混乱する。

ほんとにこんなんだったっけ?

スケール感というものは、自分のからだの大きさから切り離せないもんなんだ。
歩幅がかわるだけで、街のスケールがかわってしまう。

大きさとか距離といった単純なものではなく、街と自分のかかわりそのものがかわるから、それはそれは大変なこと。

撮影のたび、もうあと5cm背が高ければ…と切実に思うけれど、あと20cm背が高かったら、見える世界もスケール感もかわるから、きっと撮る写真も全然ちがうんだろうな。

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