LISA SOMEDA

寺社 (5)

撮影禁止

 

重森三玲の庭が見られるということで、真如院の特別拝観へ。
撮影禁止だったから、気がついたことを手帳にメモ。

スケッチは下手だけど、それでもいざ描きとめはじめると、
連鎖的にいろんなことが気になりだして、植木の刈り込み方までじっくり観察。

いろんな色と形の石を組み合わせることでリズムをつくっているな、とか、うろこ石が上流部分で二手に分かれていて、囲んでいる石がグリーン系の場所ではうろこ石もグリーンっぽいもの。囲んでいる岩がマゼンタ系の場所ではうろこ石もマゼンタ系のものを配置しているな…とか。

普段はそこまで見ていないかもしれない。

カメラを構えているときは、
対象そのものに対しては、早々と「了解」してしまって、
それよりも、どうすれば良い写真になるか、どうすれば対象を魅力的にとらえられるか、
ということを中心に考えている気がする。
実はあまり対象そのものに注意を払っていないのかもしれない。

もしかしたら、今日は、撮影禁止だったからこそ、気づいたこと、多かったんじゃなかろうか。

磐座

 

昨日、樂 吉左衞門さんの番組を見ていて、自然と同化するものを作りたいと思っても、土から何かを作り、何か表現をした瞬間、自然と相容れないものになっていくという話があって、磐座のことを思い出した。

はじめて磐座を見たのは、友人と一緒に自宅の裏の保久良神社に参詣したときのこと。
境内にある大きな岩の説明書きを読んだ友人が、「この岩、本殿よりよっぽど古いんだ。弥生時代だって。そのころからここは信仰の場所だったみたい。」と。

気になって周囲を見まわすと、不自然に大きな石が点在している。それだけのことなのだけど、そこには人為の痕跡が感じられた。

それからというもの、磐座が気になってしかたがなかったのだけれど、なぜなんだろうと考え直してみると、自然からモノを取り出して(磐座の場合は)並べるという、造形より手前の、いちばんプリミティブな人為(表現)をそこに見い出したからかもしれない。

表現というものの起源や、どうしてわたしたちは表現せずにはいられないのか、という疑問が、ずっと根っこにあるのだ。

竹生島

 

竹生島

友人と一緒に滋賀県の竹生島へ。
学生の頃に一度訪れる機会を失したこともあって、すごく気になっていた都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)。

まずは宝厳寺の本堂で、弁才天にお参り。芸能の…ということなので、念入りにお参りする。少し階段を下りて、立派な唐門から入り、船廊下を渡って、都久夫須麻神社へ。

船廊下の端で、宝厳寺と都久夫須麻神社が妙にきっぱり分けられているのが不思議だったので自宅に戻ってから調べると、もともとは神仏習合だったものを明治の神仏分離の際に「宝厳寺」と「都久夫須麻神社」に分けたのだそう。なるほど…

伏見城の遺構とも言われている都久夫須麻神社の本殿。2009年以降一般の参拝客には中は非公開とのことで、外から見えるところだけじっくり拝見。木彫装飾の過剰な感じが印象的。

鳥居に向かって土器をなげる「かわら投げ」を楽しんでいると、船の出発時刻が近づいてきたので、慌てて下山。船のスケジュールで70分しか島に滞在できないけれど、丁寧に見てまわるには90分は欲しかったな。

シロムク

 

神式の挙式には参列したことがないので、いちど式の流れを見ておきたい、と思って、大安だったし、護王神社に二度目の下見に向かう。

建物の構造的に正面から新郎新婦を撮るのが難しいこととか、蛍光灯と外光のミックス光だとか、どのあたりにポジショニングすれば、儀式の邪魔にならないかとか、そういうことをひととおり確認。

わたしと並んで挙式を見ていた参拝客の方と「シロムクって良いですね。この神社も落ち着いていて良いですよね。」という話をしていると、「じゃぁ、あなたもここで式を挙げたらいいじゃない。わたし見にくるわ。」と言われてしまった。

ひゃぁ…。

もともと落ち着いた雰囲気の神社だったからかもしれないけれど、商業の匂いがプンプンしていたり、うわっつらにたくさんのイメージ(やイデオロギー)をかぶせて甘くコーティングした、カタカナのブライダルやウエディング、とは違う、まっとうな儀式としての結婚式だった。

お宮参りの延長としてとらえたら、幼い頃から見守ってもらっている神様の前で、婚姻の儀式を執り行うというのは、人間の成長のなかで都度神様と関わりゆく、長い時間軸のなかのひとつのステップとしての経験であり、それは、ことさらに「トクベツな瞬間」を強調するブライダル産業のありようとは、一線を画しているように思う。

まっとうな記録写真を撮ります。

ひとこと説法

 

正式な名称をしらない。
お寺の入り口の掲示板に書かれている「ひとこと説法」。

京都はお寺が多いのであちこちで目にするのだけれど、けっこうこれが興味深い。
なかには「?」なものもあるのだけれど。

徳もお金と同じく増減する

これは、願照寺の前にあったもの。「お金と同じく」というところに妙な説得力がある。徳の話をするのに、お金を引き合いに出すところがすごい。

毎日通る道には「わかっちゃいるけど、やめられない」というのもある。
タバコか?酒か?ギャンブルか?
そもそも誰に対する言い訳やねん。。。って、わたしはとても好きなんやけど。

あと、三条会に「茶のごとくもまれて味出る人間味」というのもあった。
なかなか個性的。

でも、こういうことばに見えないところで守られながら、
この町のひとは生きてきたのかもしれないな。