LISA SOMEDA

社会 (27)

土に還る

 

昨年の秋の終わりに、念願だった森田真生さん(独立研究者)の講演を聞く機会を得た。てっきり数学をベースにした話になるとばかり思っていたら、PlayとGameの対比を軸に人類の起源から気候変動に絡む地政学まで、時代と分野を縦横無尽に行き交うとても刺激的な90分だった(頭をぐわんぐわん掻き回されたというのが正しい)。

その講演のあともずっと響いているのが、
「僕には庭師の友人がいて、彼はものを選ぶときにそのものが土に還るかどうかで、いいか悪いかを判断する。」という語りで始まり、
「その視点から見ると、遺跡は土に還らなかったものとも言える。土に還ることを善きこととし土に還った多数の人々ではなく、土に還らないものを残してしまったごく一部の特殊な人々のことばだけを紡いで歴史を記述するのはどうなのだろう?」という問いだった。

この問いはふたつの意味で心に残っている。
わたしは長く歴史に興味が持てずにいたが、網野善彦さんの著書に触れてはじめて、自分は支配者を軸とする歴史に興味が持てないだけで、民衆がどう生きたかという視点で描かれる歴史には強い関心があるとことに気がついた。その経験に通じるものを感じたというのがひとつ。

もうひとつは、作り手として自分の姿勢も問われているように感じたこと。〝土に還る〟というものさしと、どう向き合っていくか。

冬に向けて整理した朝顔の蔓、ユーカリ、南天の小枝などを使って手遊びのリースを仕立てながら、ベランダの植物だけでつくるリースはこの場所でともに過ごした時間の蓄積、ごくごくプライベートな歴史であり、そして気が済んだら土に還すこともできる。土に還るってなんだか安心感があるの、ふしぎだなぁ。ちょうどそんなことを考えていたところだった。

写真に携わっていると当然、劣化させずにどれだけ長期保存できるか?を考えてしまうし、作家としてはついどうやって後世に残すか?を考えてしまう。でも、経時変化を受け入れ、さいごは跡形なく土に還るという作品のあり方を選んでもいいはずなんだよなぁ…

非対称性

 

週末、ホー・ツーニェンの百鬼夜行展を観に、豊田市美術館を訪れた。

彼の作品をはじめて観たのは、2017年に森美術館と国立新美術館で開催された「サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」だ。マレーの虎にまつわる映像が強く印象に残っている。

恥ずかしいことに、わたしはこのサンシャワー展をとおして、はじめてアジア地域における日本の侵略戦争、つまり加害の歴史を具体的に知った。

思い返せば、小中学校の課題図書で選ばれるのは、戦争でどのような被害を受けたかという話ばかりだった。歴史の授業でも、近現代史は学年末に足速に通り過ぎるようなものだった。高校では理数系を選ぶと自動的に地理に振り分けられるシステムになっていて、日本史とも世界史とも縁がなくなった。自国の侵略戦争についてほとんど何も知ることなく、あるいは知らされることなく、そして知ろうとすることなく、わたしは大人になってしまった。

くわえて、21世紀を生きるアジアの作家らが前世紀の侵略戦争を主題に選ぶまさにその事実によって、被侵略地域においては戦後何十年経っても「終わっていない」ことを思い知らされた。

加害者側はその先の人生で加害の事実を忘れたりなかったことにできるけれど、被害を負った側はその被害を忘れることもなかったことにすることもできない。加害と被害の立場には必ず、そういった非対称性が生まれる。

わたしが侵略戦争について知らずに生きてこられたこと、制作において侵略戦争を主題化せずに済んできたこと、その状況そのものが加害の立場の特権性なのだ。アジアの作家らが日本の侵略戦争を主題化する傍らで、日本人作家として何も知らずに「見るとはどういうことか」といった抽象的なテーマに取り組んでいられたこと、そこに立場の非対称性が現れている。

サンシャワー展においては、
欧米との関係でしか自らの立ち位置を考えてこなかったのではないか?
前世紀の戦争を被害の立場からしか見てこなかったのではないか?
そういった反省も促された。
近年の展覧会のなかで、もっとも深く考えさせられる展覧会だった。

だから、百鬼夜行展は絶対に見逃せない展示だった。

開催中の展覧会について多くを書くのは控えるが、百鬼夜行展ではとりわけ、ふたつめの『36の妖怪』が印象深かった。一瞬にして観者を傍観者の位置から引きずり下ろすその鮮やかな手際に、思わず息をのんだ。

もしまだ観ていなかったら、是非観に行ってほしい。

トレードオフ

 

コロナ禍の影響で、商業地では空きテナントが増え、そのガラスにシートや板があてがわれている光景が目立つようになった。いっぽう住宅地では、地方移住の需要を見込んだ旺盛な投資により集合住宅の建設ラッシュ。真新しいガラスがシートで覆われている光景をよく見かけるようになった。

ガラスに映る像を見ようとすると、木目やシートの皺といった支持体が介入する。
木目やシートそのものを見ようとすると、映り込む像に阻まれる。
拮抗やトレードオフといったことばが脳裏をよぎるが、トレードオフは今の社会状況をもっとも象徴することばだ、とも思う。

隔たり

 

平時モードに戻る前に、もうひとつ書き残しておこうと思う。

「隔たり」ということばは、ふつう二者の空間的・時間的な距離を指す。それだけでなく、たとえ二者の距離が限りなく近くても、ガラスや壁のような遮蔽物が間にあるような場面でも「隔たり」ということばを使う。これらはまったく異なる状況のはずなのに同じことばを使う。そのことに興味を持った。

この二つの状況に共通点を見出すとすれば、距離や遮蔽物によって二者の接触が阻まれているということではないか?「隔たり」ということばのベースには「触れることができない」(接触不可能性)というチクッと心が痛む経験が横たわっているのではないだろうか?

かつて、そんなことを考えたことがある。(隔たり 2014.04.26)

奇しくも、新型コロナウイルスの感染防止対策として、日常生活ではソーシャルディスタンスを保つよう促され、公共施設や商店の窓口には薄い透明のシートが貼られるようになった。ぼんやり考えていたことが、突然、可視化されてしまった。

満足であるというのは過激なこと

 

先日、@CKUAで観たジェン・ボー(鄭波)の展覧会で、参考書籍として紹介されていた本の中に、好きな装丁のものがあり、後日、あらためて探し求めた。

植物と叡智の守り人

ネイティブアメリカンの植物学者が描くうつくしい世界観に触れ、しばらくこちらの世界に戻ってきたくなくなってしまった。それも、ただうつくしいのではなく、現代社会に対する鋭い洞察がいたるところにちりばめられている。心に刺さったところをいくつか書き留めておこうと思う。まずは、経済について。

ネイティブアメリカンの社会では、感謝、とりわけ地球や大地に対する感謝が重視されるが、資本主義社会でドライブのかかった欲望に歯止めをかける力を、著者はこの感謝という行為に見出している。

以下の記述は、著者が夢で見た光景ではあるが、心理描写が興味深い。

つい先日、その市が、鮮やかな質感とともに私の夢に出てきた。私はいつものように腕に籠を抱えて売店を縫って歩き、エディータの店に採りたてのコリアンダーを買いに行く。楽しくおしゃべりをした後、お金を払おうとするとエディータは、要らない、と手を振り、軽く私の腕を叩いて立ち去らせようとする。贈り物よ、と彼女が言う。どうもありがとう、と私は答える。お気に入りのパン屋では、丸いパンの上に清潔な布をかけてある。私はパンをいくつか選んで財布を開けるが、ここの店主もまた、まるでお金を払おうとするのが失礼なことでもあるかのように、要らない、と身ぶりで示す。私は困惑して周りを見回すーー見慣れた市場のはずなのに、様子がガラリと変わっている。私だけではなく、誰もお金を払っていないのだ。私はすっかり嬉しくなって、市場を足取り軽く歩き回る。ここで使える通貨は感謝だけなのだ。すべては贈り物なのである。まるで野原でイチゴを摘んでいるみたいだーー行商人たちは、地球からの贈り物を次の人に手渡す仲介者にすぎないのである。

わたしは自分の籠の中身を眺める。ズッキーニが二本、玉ねぎ一個、トマト、パン、それにコリアンダー。籠はまだ半分空だが、一杯になったみたいに感じる。必要なものは全部揃っている。私はチーズを売っている店に目をやり、買おうかな、と考えるが、買うのではなくてもらうことになることを考え、やっぱりやめることにする。おかしなものだーー市場にあるものが全部、単にとても安いだけだったら、ふだん私はできるだけたくさんのものを買っただろう。でも全部が贈り物となったら、自制心が働いたのだ。必要以上のものは受け取りたくない。そして、明日私は何をお礼に持ってこようかと考え始めた。

もちろん、その夢は消えてしまったが、とても嬉しかった気持ちと自制心は消えなかった。それ以来何度もそのことを考え、私はそのとき、市場経済から贈与経済へ、私有財産から共有財産への転換を目の当たりにしたのだということが今ではわかる。そしてその転換によって私たちの関係は、手に入れた食べ物と同じくらい滋養たっぷりなものになった。(後略)

(『植物と叡智の守り人』 ロビン・ウォール・キマラー著 三木直子訳 築地書館 2018 pp.47-48から抜粋)

市場にあるものが全部、単にとても安いだけだったら、ふだん私はできるだけたくさんのものを買っただろう。でも全部が贈り物となったら、自制心が働いたのだ。必要以上のものは受け取りたくない。

贈与経済では、過剰な欲望は抑止される。これは、大事なポイントではないだろうか。

さらに、「感謝のことば」あるいは「すべてのものに先立つ言葉」として古くからネイティブアメリカンに伝わる慣習を紹介する章では、以下のように記されている。

感謝のことばを聞いていると、否応なく豊かな気持ちになる。それに、感謝の気持ちを表現するというのは素朴な行為に見えるかもしれないが、それは実は革命的な考え方だ。消費社会においては、満足であるというのは過激なことなのだ。自分に不足しているもののことではなく、自分がいかに豊かであるかを認識するのは、満たされない欲求を作り出すことによって繁栄する経済を弱体化させる。感謝の念は充足感を育てるが、経済の繁栄には欠乏感が必要なのだ。感謝のことばは、あなたはすでに必要なものすべてを持っているということを思い出させる。感謝の念があれば、満足感を得るために買い物に行こうとは思わない。満足感というのは買えるものではなく、贈り物であって、それは経済全体を根幹から揺るがす。地球にとっても人にとっても、それは良い薬になる。

(同書pp.146-147から抜粋)

感謝の念は充足感を育てるが、経済の繁栄には欠乏感が必要なのだ。

持続可能な社会に向けて、まっさきに取り組むべきは、感謝の気持ちを表現する、ということなのかもしれない。

オリジナルとコピー

 

増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い (岩波現代文庫)』にあった遷宮の話が、ずっとひっかかっていた。世界遺産への登録が検討された際、遷宮によって建て替えられた“新しい建物”をどうとらえるかが議論になったという。

コピーがオリジナルにとってかわるという存在のしかたが取りざたされたようだけれど、わたしたち自身、その細胞は日々新しいものに入れ替わっている。むしろ遷宮のシステムは、生物の在りように近いのではないか、とも思う。「存在のしかた」は、ひとつではないのだ。もっと世界に視野を広げれば、もっと多様な「存在のしかた」が見つかることだろう。

それと同時に、あたりまえに交わされる「オリジナルとコピー」という議論が、実に西欧的(西欧ローカル)な問いであることにも気づかされた。

最近、芸術の枠に組み込まれていない視覚表現に関心を持つようになった。そういったところから、芸術における議論を相対化する視点が得られるのではないか、と期待している面もある。そう考えるようになったきっかけは、この遷宮の話だ。

以下、『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い (岩波現代文庫)』 高階秀爾著 岩波現代文庫 2009より抜粋。

 ところが、伊勢神宮においては、コピーが本物にとって代わる—というか、コピーこそが本物である—という、西欧の論理ではあり得ないはずのことが、現実に行われている。神殿が二十年ごとに建て直されるというのは、もともとは建物が古くなって損傷が激しくなったから新しいものに代えるという理由から始められたものであろうが、それは、本物がいたんできたからコピーで間に合わせるというものではない。新しく出来上がった瞬間に、それは「本物」となるのである。(p31より)

 問題は、もちろん伊勢神宮だけにあるのではない。日本古代のこの神殿が、西欧の論理を戸惑わせるようなやり方で今日まで生き続けているということは、とりも直さず、それが日本人の心性、価値観、ものの味方と、深いところでつながっているからであろう。

 差し当たりまずはっきりしていることは、日本人は西欧人ほどものそのものに価値を置いていないということである。あるいは、ものそのもののなかに本質はないと考えている。と言ってもよいかもしれない。伊勢神宮で大事なのは、建物そのものではない。いや建物はむろん大事ではあるが、その大事だということが、建物の材料であるものとは、必ずしもそのまま結びついていない。現実には二十世紀に建てられたものであっても、あるいは途中で何回も壊され、建て直されたものであっても、現在の伊勢神宮は、われわれにとって、やはり千数百年前とまったく同じ価値を持っている。(p32より)

 この「形見」という言葉は、もともと「かた」(型、形)に由来するものであろうが、とすれば、そのこと自体、きわめて意味深い。事実、西欧に「ものの思想」というものがあるとすれば、日本には「かたの思想」とでも呼ぶべきものがあって、ものそのものよりもかたないしは形の方を重要視する傾向が強いからである。伊勢神宮が六十回も建て直され、そのたびにものとしてはまったく新しい別の存在になりながら、一貫して同じ価値を保ち続けた理由は、それが同じ「かたち」を受け継いでいるからなのである。

 日本人のこのような価値観は、宗教の世界を離れて日常の世界においても、その現われを見出すことができる。さしずめ、歌舞伎の名跡などというものはその代表例であろう。

 かつては、梨園においてのみならず、武家でも商家でも似たようなことが行われていたが、団十郎とか歌右衛門という名前は、それを名乗る人が何回入れ代わっても、一貫してある一定の価値を示している。ちょうど伊勢神宮が、何回建て直されてもつねに伊勢神宮であるのと同じである。(p38より)

積みすぎた方舟

 

熊谷晋一郎さんの著書を読むのは『リハビリの夜 (シリーズ ケアをひらく)』以来。外出先で読んでいたのに、思わずうるっときてしまった。

未踏の社会に対して、失敗しつつも一歩を踏み出しつづけられるのは、どこかで社会のこと、他人のことを信頼している子供です。その、いわば根拠なき他人への信頼は、おそらく親との関係によって育まれる部分が大きいように思います。困ったときに誰か助けてくれるはずだと信じ、助けを求められるようになるには、困ったときに、下手でもいいから誠意をもって応じてくれた親との関係の記憶が、何よりの財産になるでしょう。そしてまた、自分を育てるにあたって、困った親が社会にヘルプを出したということ、そして、社会が親を救ってくれたということを、子は見ています。小さい子にとって、自分と親の境界線はあいまいで、親が社会によって助けられる姿は、自分が社会によって助けられる姿と不分離なものです。子が社会を信頼できるようになるという意味でも、育児を抱え込まず社会にヘルプを出す姿を子に見せることは大変重要だと思います。

ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』 熊谷晋一郎 大澤真幸 上野千鶴子 鷲田清一 信田さよ子 青土社 2013 p108より抜粋

人が社会(他者)に抱く印象は、その人と養育者との関係とパラレルだと、うっすらと感じていた。養育者への不信感は、そのまま社会(他者)への不信感だ。だから、まず、我がこととして刺さったというのもある。でもそれ以上に切実なのが、今の不寛容な社会が、想像以上のダメージを次世代に与えるかもしれないという危機感。

今、子育てをしている親たちは、不寛容な社会の中で、多かれ少なかれ萎縮していると思う。社会の側から「助けるよ」というメッセージを明確に示さない限り、「ヘルプを出す」ことすら難しいのではないかと思う。親たちを救えるように、また、親たちが躊躇なく救いを求められるように、社会を整えることが急務だと思う。

時間と空間の抹殺

 

〈パノラマ的視覚〉の一語に勢いづいて、ヴォルフガング・シヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史 〈新装版〉: 19世紀における空間と時間の工業化』を繙いた。

のっけからすごい表現だなぁと思ったのが、この「時間と空間の抹殺」という表現。そのくらい、当時の人々にとって鉄道のもたらした速度は脅威だったのだろう。

 時間と空間の抹殺、これが鉄道の働きを言い表す十九世期初期の共通表現(トポス)であった。この観念は、新しい交通手段が獲得した速度に由来している。所与の空間的隔たりを踏破するためには、伝統的にはある決まった旅行の時間または輸送の時間が必要であったが、この距離が、突然その時間の何分の一かで踏破されることとなり、これを裏返せば、同じ時間で昔の空間的な隔たりの何倍かが進められることになった。

鉄道旅行の歴史 〈新装版〉: 19世紀における空間と時間の工業化』(ヴォルフガング・シヴェルブシュ著 加藤二郎訳 法政大学出版局 1982) pp.49から抜粋

(前略)抹殺されたものとして体験されるのは、伝統的な空間及び時間の連続性である。この連続性は、自然と有機的に結びついていた昔の交通技術の特徴である。昔の交通技術は、旅をして通過する空間と模倣的関係にあったので、旅行者には、この空間を生き生きとした統一体として知覚させたのである。(後略)

鉄道が空間と時間とを抹殺するという考えは、交通技術が突然に全く新たな他の交通技術によって代替されたときに見出される、知覚のこのような現実喪失と理解することができよう。鉄道が作り出す時間・空間の関係は、技術以前の時代のその関係にくらべると、抽象的なものに見え、時間・空間感覚を阻害するものと写る。(後略)

同書 p53より抜粋

高速移動があたりまえの時代に生きる者としては、「抹殺」とまで言う衝撃は想像しにくいけれど(正直、大げさだなと思うし)、翻って考えると、鉄道以前の旅では、それだけ濃密な関係が、人と空間の間にあったということなのだろう。

このことで少し思いあたることがある。
写真を撮るようになってから、歩くことで、その土地への親近感が増すのに気がついた。ひと月に満たない滞在でも、歩いた土地には愛着が湧く。徒歩の次が自転車。逆に、バスで観光地を巡るパッケージツアーでは、そのような親近感は抱き難い。
「歩くと、土地との関係が近くなる」というのが、近年のわたしの発見で、鉄道の登場以前に馬車や徒歩で移動していた時代には、むしろその感覚のほうがデフォルトだったのかもしれない。

十九世期初期の人々に抹殺とまで言わしめた、鉄道の速度がもたらした「時間・空間感覚の阻害」は、朝夕通勤電車にゆられ、ときに新幹線で移動するわたしたちに、もはや何の違和感ももたらさない。テクノロジーによって、ひとびとの知覚のありようが変わるということは、今後もっと顕著に起こるだろう。
シンギュラリティーに戦々恐々としているわたしたちの有様は、22世紀からまなざせば、なんと大げさな、と、とらえられるのかもしれない。

経験識閾

 

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳 みすず書房 2012)の以下のくだりは、ものすごく興味深い。それぞれの文化のなかで、(ふだん意識していないが)ものごとを認知するうえで何に重点を置いているか、ということが言語からあからさまにわかる例。

(前略)マッチの火が瞬いて消えそうになる。男たちは、「マッチがイビピーオする」と言った。別の晩にも、消えかかるキャンプファイアーを前に、この言葉が同じように使われた。このような状況では、イビピーオは副詞として用いられてはいなかった。

(中略)ある物質が視界に入ってくる、または視界から出ていくという状態を表すために使われるものなのだ。誰かが川の湾曲部を曲がって現れるのは視界に入ってくることだし、それならば何かが視界から消えるとき、たとえば飛行機が水平線の彼方に見えなくなるのにピダハンがこの表現を使うのもうなずける。
(p183から抜粋)

イビピーオは、ぴったりと重なる英語の見つからない文化的概念ないし価値観を含意していると思われる。もちろん「ジョンは消えた」とか、「ビリーがたったいま現れた」という言い方をすることはできる。しかしこれはイビピーオと同じではない。第一に英語では「消えた」というときと「現れた」というときに別々の言葉を用いるのだから、両者は別々の概念だ。またここが肝心なのだが、われわれ英語圏の話しては、現れたり去って行ったりする人物のほうに焦点を当てていて、誰彼がわれわれの知覚の範囲に入ってきたとかそこから出て行ったとう事実に着目しているのではない。

最終的にわたしは、この言葉が表す概念を経験識閾と名付けた。知覚の範囲にちょうど入ってくる、もしくはそこから出ていく行為、つまり経験の境界線上にあるということだ。消えかかる炎は知覚経験のうちと外を絶えず行き来する炎なのである。
(pp.183-184から抜粋)

現れる、あるいは消えるという現象に重きをおくピダハンの認知のありようから、翻って、自分の属する文化の認知のありようはどうなのか?と、考えるきっかけになる。

大避神社の船祭り

 

和船

中沢新一さんの『精霊の王』を読んで以来、猿楽の祖である秦河勝をまつっている大避神社(兵庫県赤穂市坂越)に行ってみたいなぁと思っていたところ、10月の第2日曜日に船祭りを開催するらしいので、その祭りにあわせて出かけることにした。

猿楽の祖をまつっているといっても、大避神社の境内には、舞台のようなものはなく、境内じたいはシンプル。境内から坂越の浜と、神域とされる生島が見渡せる。

船祭りは、祭神である秦河勝が漂着した生島のお旅所へ神輿をお供する神事で、本祭の日は朝から船飾りがすすめられ、昼に神輿に大神さまの分霊をうつして、獅子舞を奉納し、船歌を唄い、頭人が拝礼をする一連の神事が執り行われる。それが終ると、一行は鼻高(猿田彦命)が先頭に、神社から浜のほうへ行列が繰り出す。

獅子舞

浜に神輿が着くと、神輿を船に載せるための板(バタ板)かけの練りがおこなわれ、無事神輿が乗船すると、漕船二隻が獅子船、頭人船、楽船、神輿、歌船を曳航して浦をぐるっと一周し、生島のお旅所へと向かう。

坂越の船祭

見どころは、和船の造作と、この祭礼船が、獅子を舞い、雅楽を奏で、船歌を歌いながら巡航する様子。この日は少し雲が厚かったので、色が少し沈んで見えたけれど、晴れた日なら、もっと綺麗に見えたのかもしれない。

曳航

日が暮れ、浜でかがり火がたかれるなか、生島での神事を終えた船が戻って来るのも、素敵な光景だった。

今年、国の重要無形文化財の指定を受けたが、それでも、少子化で漕手が少ないため、祭りのために坂越の出身者が東京や北海道をはじめ、全国各地から戻ってきて祭りに参加しているとのこと。大人も子どもも総出で、坂越の人々が大切に守ってきた祭りであることがよくわかるお祭りだった。

300年以上の歴史を持つ祭りだけれど、秦河勝が没したのが647年で、船祭りは江戸時代初期にはじまったと言われるから、その間に千年ほど経っている。なぜそのタイミングで祭りがはじまったのか、が気になるところ。

シデ振り

祭りと坂越の主要な産業である廻船業との間には深いつながりがあると、配られた資料に書かれていた。ちょうど今、読み始めている海民について書かれた網野善彦さんの本に、廻船業と芸能との関係について書かれていた箇所があったので、何かつながってきたらおもしろいなぁと思う。

最近は、中沢-網野両氏(この方々は甥と伯父の関係なのですね…)の著書の影響で、この国の歴史のなかで、芸能がどういう役割を果たして来たのか、とか、芸能民と呼ばれるひとびとがどういう人たちだったのか、ということにふつふつふつと興味が湧いている。

217

 

本町ガーデンシティに坂茂さんのレクチャーを聞きに行く。いくつか気になったことを書きとめておく。

  • 自分がこれと思う素材を見つけると、時代の風潮に流されない建築ができる。
  • 建築でたいせつなのはプロポーション、そして光と影。高い素材を使わなくても良いものはできる。(紙管の話)
  • 良い建築をつくりたければ、良い建築をたくさん見ること
  • 問題を設定して、どうデザインで解決できるかを考える
  • 素材を研究する
  • スケッチ、手で描く(海外の現場で言葉が通じなくても筆談でスケッチが描ければ通じる)

すごいなぁと思うのは、建築のディテールまでデザインする緻密で美的な作業と、コストから資材の再利用まで、さらには現地の雇用までを視野に入れたプランニングの両方ともができること。

何より、社会に対して(建築は、デザインは、写真は、自分は、)何ができるかという視点でものを考えるのを、ずいぶんさぼっていたなぁと気づかされるレクチャーやった。

ひと

 

水曜日のテレビ番組で、「行政の大きなお金を使って大きなモニュメンタルな建築をつくって、本当にひとのためになっているのか?と自問していたことや、難民キャンプや震災の現場で紙管の構造体が利用されたことで、建築がひとの役に立つことを実感した」という坂茂さんの話が印象に残っていた。

そして翌日、建築事務所を営む友人とご飯を食べながら話していたときに、その友人が、「最近、自分はかわってきたと思う。以前は綺麗なものが好きで、自分の設計した建物に趣味の悪いタンスが置かれてたらいやだなぁと思ったけれど、最近そういうのは気にならなくなった。むしろ、そこにひとがいることこそが大事やと思うようになった。」と言っていた。

どちらも、もの(作品)ではなく、ひとを中心に据えるというところで、共通していると思う。立て続けにそういう話を聞いたので、今日はずっとそのことばかり考えていた。では、写真はどうなのか?

もうひとつ、彼女に訊かれた「最終的にはどういうものを撮っていこうと思っているのか?」という問いも、意外と鋭く刺さっている。たぶん、いまの段階ではわからない。風景/ポートレイト/うんぬん…という既存の分類の中のひとつを選ぶような選択にはならないと思う。得手-不得手や、撮るもの-撮らないものはあるけれど、もっと違う分節の仕方をすると思う。その場では、そういうことをうまく説明できなかった。

彼女の問いはドキッとしたけれど、ものすごく嬉しかった。学生時代は仲間同士で相手の制作の核心に近いところまで遠慮なく切り込むことも多かったけれど、最近そういう問いを投げかけてくれる人はめっきり減った。
あるいは、わたし自身が避けていたのかもしれない。

同じ平面で異るのではない

 

今福龍太さんの『レヴィ=ストロース 夜と音楽』を読んで、気になっていた一冊『人種と歴史』(クロード・レヴィ=ストロース 荒川幾男訳 みすず書房 1970)。
込み入った部分は消化不良気味だけれど、2点気になった箇所を挙げておこう。特にひっかかったところを太字にしておく。

 諸々の人類文化が、相互にどのように、またどの程度異なるのか、その相違は互に消しあうのか対立しあうのか、あるいはいっしょになって調和ある全体をなすのかどうか、を知るには、まずその明細目録をつくってみなければならない。だが、まさにここから困難がはじまる。というのは、諸々の人類文化は、相互に同じ仕方で、また同じ平面で異るのではないことに気づかざるをえないからである。われわれは、まず、あるいは近くあるいは遠く、しかしいずれにしても同時代に、空間に並列された諸社会に出会う。次には、時間のなかで継起し、直接体験をもっては知ることのできない社会生活の諸形態を考慮に入れなければならない。(中略)最後に、《野蛮》とか、《未開》とか呼ばれる社会のような、文字を知らない現存の諸社会も、やはり、たとえ間接的な仕方をもってしても実際には知ることのできない別の諸形態が先行していたことを忘れてはならない。良心的な明細目録は、それらに対して、何ごとかを記録しうると思われる欄の数よりも、おそらくずっと多くの空欄をとっておかねばならないのである。(p11-12から抜粋)

「同じ平面で異るのではない」というのが、しっくりきた。他者というのはそういうものなんだと思う。人類文化というほど大きな枠組でなくても、比べようにもそもそもの構造がまったく違うということがままある。他者との差異に関しては、そのくらい「違う」こともありうると思っておいたほうが良いということには薄々気がついていた。そして、自分のモノサシでははかれない、あるいは自分の感覚では感受できない「なにか」があるかもしれないということをあらかじめ勘定に入れておくことも。「何ごとかを記録しうると思われる欄の数よりも、おそらくずっと多くの空欄をとっておかねばならない」

卑近な話になるけれど、友人であれ恋人であれ、人と知り合って関係をとり結ぶことの醍醐味は、他者のあり方に自分が影響を受けることだと思う。ときに他者との差異によって苦痛を感じることもあり、ときに、自分自身が大きく変わらなくてはならないこともある。そして、どれだけドラスティックに変われるかは、相手との差異のあり方に関わっている。世界を受けとめる構造からしてまるごと違う方が、影響の受け方も深い。そういうことをぼんやり考えていたところだったから、この文章に反応したんだと思う。
もう一点は、

 もっとも古くからある態度は、自分のものだとする文化形態にもっとも遠い道徳的、宗教的、社会的、美学的な文化の諸形態を、無条件に拒否するもので、それは、思いがけない状況におかれたとき、われわれのひとりひとりのなかにまたしても現れでてくるのだから、おそらく固い心理的基盤に立っているのであろう。《野蛮人の習慣》、《それはわれわれのものではない》、《それは許されるべきではなかろう》等々、われわれとは縁のない生き方や信仰の仕方や考え方に当面して、これと同じような身震い、嫌悪をあらわす粗野な反応がいっぱいある。こうして、古代は、ギリシア(次いでギリシア・ローマ)文化に属さぬものを、すべて同じ未開barbareの名のもとに一括した。次いで、西洋文明は、同じ意味で野蛮sauvageという言葉を用いた。これらの形容詞の背後には、同様の判断がかくされている。すなわち、未開(バルバール)という語は、語源的に、人間の言葉の意味値に反する鳥の啼声の不分明と不文節に関連しており、野蛮(ソーヴァージュ)という言葉は、人類文化に対立する動物生活の分野を思わせる。この二つの場合、ひとは、文化の差異という事実すら認めることを拒んでいるのである。自分たちが生きる規範と同じでないものは、すべて文化の外に、すなわち自然のなかに投返そうとするわけである。

 この素朴だが大ていのひとの心に深く根を下した見方は、ここで論ずる必要はない。というのは、この小冊子がそれをきっぱりと反駁しているからである。ここでは、この見方が、なかなか意味深長なパラドックスを蔵していることを指摘すれば足りよう。この、人類から《野蛮人》(あるいはそう思うことにしたものすべて)を除外する思考態度は、まさに当の野蛮人自身のもっとも顕著な特有の態度なのである。(中略)アメリカ発見の数年ののちに、大アンティル諸島では、スペイン人が原住民が魂をもっているかどうかを調べるために調査団を派遣したのに対して、原住民たちは、かれら白人の死体が腐敗を免れるものか否かを長い間見届けて確かめるために、白人の捕虜を水葬にすることにしたのである。

 この異様で悲劇的な挿話は、文化的相対主義のパラドックス(それは本書の別の個所で別の形でも問題にしよう)、をよく示している。つまり、自分が否定しようとするものともっとも完全に一致するのは、諸文化や慣習の間に区別をもうけようと主張する場合だというわけである。その文化ないし慣習をもっているもののなかでも一番《野蛮》で《未開》にみえるものに人間性を拒否しておいて、かれらの典型的な態度の一つを、他ならずかれらから借りているのである。(後略)(p16〜p18から抜粋)

「ひとのことをバカと言うひと(のその行為)がバカなのよ」と昔よく親に叱られた。このようなパラドクスに陥る危険は、身近な生活の中にも潜んでいる。

レヴィ=ストロース 夜と音楽

 

(前略)西欧人である民族学者によって見出される「未開社会」、という不可避の植民地主義的構図を、結局は彼自身がブラジルにおいて追体験し、言説として再生産するほかなかったという事実への苦い反省が込められている。
 伝統文化の消滅に力を貸しながら、一方で知的ノスタルジーとともにそれを戦利品として展示・消費する西欧文化=学問の近代的な「しつけ」(ディシプリン)にたいし、レヴィ=ストロースほど自責の念にかられ、またそれにたいして倫理的な潔さを貫いた人類学者も二〇世紀においてはいなかった。小著ではあっても、西欧近代の人種主義の偏見と前進的歴史への過信にたいする激烈な批判である『人種と歴史』(一九五二)が、『悲しき熱帯』に先立って刊行されていることの倫理的意味を、わたしたちは再度確認しなければならないだろう。過去のフィールドへの追憶に浸る前に、彼は民族学という学問の根にある植民地主義と進歩への幻想とを、明晰にえぐり出しておく使命を感じたのだろう。
(『レヴィ=ストロース 夜と音楽』今福龍太著 みすず書房 2011 p46より抜粋)

以前清水穣さんの講義で聞いた、写真のモダニズムの話をふと思い出した。目に見える世界の向こう側には、手つかずのありのままのまっさらな世界、タブラ・ラサが存在するという、写真のモダニズムが前提とした世界観は、そのまま植民地主義の構図に置き換えられるという話。その話は目から鱗だったし、同時に、とても怖かった。無批判に作品をつくることの怖さ。そのとき、特定のイデオロギーを強化することに、意図せず加担するようなことにならないためにも、自分にも、自分のつくるものに対しても批判的でありつづけることが必要だと切実に思った。

レヴィ=ストロースが反省や自責の念を抱えながら、ブラジルとどう関わり続けたのか。まだ彼の著書を読んだことがないので、『人種と歴史』から順を追って読んでみようと思う。

老い

 

(前略)とりわけ、十九世紀に入って地球全体が世界資本主義の網の目にとらえられていく過程では、生産力の向上、技術革新、国際的規模での分業体系の深化、商品輸出や資本輸出のための市場争奪戦と帝国主義戦争の勃発、第二次大戦以降ではとくに西欧資本主義国間の貿易競争や商品開発競争の激化、といった現象が次から次へと展開し、この過程にまき込まれる個々人の日常生活は多忙をきわめるだけでなく、人生の浮沈も激しい。個人の人生は、経済という戦場で闘う戦士の人生のごときものであって、こういう個人に要求される資質は身体頑健、決断力、つねに生き生きしていることであり、つまるところ、若さである。経済戦争は老人ではやりぬけない。戦士は、つねに青年であり、せいぜい年をくってもかぎりなく青年的な壮年者でなくてはならない。経済戦争に耐えることのできないものは、たとえ若者であっても、老人であり、本物の老人がこの戦いで勝ちぬける見込みははじめから閉ざされている。近代や現代の経済生活では、老人であることはつねにマイナスの価値であり、老いの価値ははじめから極小値をとる。

 偏見をはなれていえば、幼年、青年、壮年、老年といったライフ・サイクルの各時期の間に価値の上下はない。本来は、それぞれの人生局面にはそれ固有の意義があるはずであり、子供と老人は社会のクズで、青年や壮年が社会の大黒柱だということはありえない。純粋に肉体的にみれば、若い者が強いのはあたり前だ。しかし肉体的に強いことと価値的に高いこととは、ストレートには結びつかない。にもかかわらず、近現代社会では、肉体的強さ=若さと価値観的プラス性とがストレートに結びついてしまった。それは個人の先入見とか、物の考え方の軽薄さといったものではない。近代市民社会とそれをドライブする資本主義市場経済が生みだしたイデオロギーこそ、老いの価値低下をひきおこしてきたし、今もそうである。

(『精神の政治学―作る精神とは何か (Fukutake Books)』今村仁司著 福武書店 1989 p141-142から抜粋)

もう20年以上も前に書かれた本。21年前だと、わたしは14歳か。両親がそろそろ「介護」に向き合わなければならなくなりはじめた頃に書かれたものだ。

それでも、この文章がそんなに古く感じられないのは、この20年の間に、老いを支える制度はそれなりに整いつつあっても、老いをとらえる人びとの意識それ自体は、それほど変わっていないからだと思う。

昔、撮影を依頼された商品が「アンチエイジング」を謳う化粧品だった。宣材写真を撮るのははじめてのことだったから、撮り方を教えてもらおうと思って頼んでいたひとに、まっこうから拒絶された。

肩こりの薬が肩こりに効くというのは単に効能を示すもの。
でも、アンチエイジングは、イデオロギーだ。
あなたはそれに加担するのですか?
と。

その時点では、まったく意味がわからなかった。
けれど、今ならよくわかる。

正しい問い

 

短い期間に何度か同じタームを耳にするとすっかり刷り込まれ、気がついたらドラッカーの本を手にしていた。

そうそう、電通のセミナーのシライシさんの話の、「今世紀末にはほとんどの企業が、NPO、NGO化している。あるいはそれに近い状態になるとドラッカーが予測している」というくだりが印象に残っていたんだ。

読んだあとで気がついたのだけれど、前の晩に読んだの?というくらい、シライシさんの挿話がドラッカー“まんま”。それがちょっと可笑しかった。

あたりまえだけど、たいせつなことが書かれている。

“重要なことは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを探すことである。”

“人は費用ではなく資源”

さて、寄り道はこれくらいにして…分厚すぎるというそれだけの理由で敬遠していた『知覚の宙吊り』、そろそろ読まなくちゃ…

家族

 

最近読んだ2冊の本に、立て続けに家族についての記載を見つけたので、少し気になった。とりあえず、抜き書きをしておこう。考えるのはあとにして。

 たとえば核家族が住まうための家を建てることに、二〇世紀の人々は懸命になった。二〇世紀の経済を下支えしたのは、「持ち家」への願望である。従来の地縁、血縁が崩壊し、近代家族という孤立した単位が、大きな海を漂流しはじめたのが二〇世紀であった。近代家族という不確かで不安定な存在に対して、何らかの確固たる形を与えるために、彼らは住宅ローンで多額の借り入れをしてまで、家を建て、家族を「固定」しようとした。あるいはコンクリート製のマンションというかたい器のなかに収容することによって、存在の不安定を「固定」しようとした。地縁、血縁が崩壊したことで不安定になってしまった自分を、コンクリートというがちがちのもので再びかためたいと願ったのである。
(『自然な建築』 隈研吾 岩波新書 2008 p9より抜粋)

 このことを建築家の山本理顕さんは、もう少し厳しい口調で次のように書いている。「〈家族という—引用者注〉この小さな単位にあらゆる負担がかかるように、今の社会のシステムはできているように思う。今の社会のシステムというのは、家族という最小単位が自明であるという前提ででき上がっている。そして、この最小単位にあらゆる負担がかかるように、つまり、社会の側のシステムを補強するように、さらに言えばもしシステムに不備があったとしたら、この不備をこの最小単位のところで調整するようにできている」、と。

 その最小単位じたいが、いま密度を下げている。独特の密度を可能にする閉じた関係を内蔵しにくくなっている。塗り固められた燕の巣のように、内部を密閉する鉄の扉によって、かろうじてイメージとして維持されているだけの内部を外部からがちっと遮断しているだけだとしか言いえないような家族も増えている。この防波堤が外されれば、イメージとしてかろうじて維持されている家族の形態もすぐにでもばらけてしまいそうだ。

(『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』 鷲田清一 筑摩新書 2010 p148より抜粋)

ちょうど、児童虐待のニュースが取りざたされていたから、余計に気になったのかもしれない。

子育て中の友人を訪ねて行ったとき、「わたしなんて、まだ仕事をしているから良いけれど、そうでなかったら24時間ずっと赤ちゃんと二人っきりなんだよ。大変なんだよ。会いに来てくれて嬉しかった。」としみじみと言われたことを思い出す。

そのとき、子育て中のお母さんは、想像以上に孤独なのだと思った。
そして、ひとつの命の責任を24時間引き受けることの重圧。

自分の親も決して100点満点の親ではなかったけれど、その親を相対化できる程度には、さまざまな大人に『からまれていた』と思う。

ズケズケ物を言う友だちのおかん、親よりも厳しいピアノの先生、いつも美味しい料理で迎えてくれる祖母、周囲の大人との関係が、案外、親子関係の弾力となっていたのかもしれない。家族関係を小さく小さく密閉することで、そういう弾力性が削がれていっているのかもしれない、という気がした。

時代がかわったのか、自分がかわったのか、

 

言葉づかいに違和を感じることがある。

昔から気になっていたのは「家族サービス」。
たいせつな家族と一緒に過ごす時間を、サービスというビジネスのタームでしかとらえられないことが、なんとも寂しくていやだな、と思っていた。

そういう違和感に通じることが書いてあったので抜き出してみる。

 書店にはビジネスコーナーがあり、「MBAに学ぶ企業戦略」だとか「ブランドエクイティ戦略」だとか「マネジメント戦略」といった「戦略本」が平積みとなって所狭しと並んでいます。わたしはいつも、ここはどんな「戦場」なのかといいたくなります。
 いったい、いつからビジネスが「戦争」になったのでしょうか。わたしの経験からいっても、モノの交換から始まって高度消費資本主義の現在にいたるまでの「商取引」の原理からいっても、ビジネスはモノを媒介とする平和的なコミュニケーションであり、戦争のアナロジーで語れるようなものではないはずです。
(『反戦略的ビジネスのすすめ』平川克美著 洋泉社 より抜粋)

そういう好戦的な言葉づかいが蔓延することで、時代の風潮がつくりだされる、というようなことも書かれていた。

本屋さんに行ったときに、ビジネスコーナーで感じる「いやな雰囲気」だとか、ひとが、ビジネスのノウハウを語るときのその語り口に対する違和感だとか、そういったものの理由がわかった気がした。

戦略的に誰かを出し抜いても、そういう相手にはいずれ出し抜かれるし、結果として出し抜かれなかったとしても、出し抜かれるかもしれない、という不安や緊張のなかで競争するようにして仕事をするのは、必ずしも良いパフォーマンスを生むとは思えない。それよりは、協調して互いの利益を確保するほうが、長期的にはプラスとなるんじゃないの?ということは、漠然と感じていた。お客さんが相手でも、業者さんが相手でも、あるいは同業者が相手でも、それは同じことだと思う。

だから、そういう「刺すか刺されるか」みたいな殺伐とした雰囲気を、なんかしんどい、と感じていたところに、この本に出会って、少しほっとした。

戦争のアナロジーで語ることによって、ビジネスをもっとほかの枠組みでとらえる可能性が削がれている、というこの本の主張に、わたしは深く共感する。

こういうのはほんの一例で、メディアの、ひとの、言葉づかいに違和を感じることが日増しに多くなっていってる。その多くが、そういう言葉をつかうことで、あえて、生きることを貧しくしているんじゃないか、そう感じるような言葉づかい。

はたして、時代がかわったのか、自分がかわったのか。

彼岸

 

歴史は苦手科目だったのだけれど、昨年あたりに出会った網野善彦の著書がおもしろくて、時間を見つけては、読み進めている。

川岸を撮っていることもあって、気になって読んでみたのが、『河原にできた中世の町―へんれきする人びとの集まるところ (歴史を旅する絵本)』(網野善彦著 司修絵 岩波書店 1988)。これは、児童書にしてはとても深く難しい内容を扱っている。

ふるくから、川べり、山べりなどの、自然とひとの生活の営まれる世界との境目が、あの世とこの世の境だと考えられていた。だから、向こう岸(彼岸)は、そのまま彼岸なのだ。ここ数週間スキャンしていたフィルムは、彼岸の写真だ。

写真家の中には、人の営みと自然との境がおもしろい、という人がけっこう多いのだけれど、そういう境に魅かれる気持ちの奥底には、本人も自覚しないかたちで、生と死に対する関心が横たわっているのかもしれない、などと思う。

さらに、そういう境の場所は、人の力のおよばぬ神仏の世界に近いので、人と人のこの世での関係もおよばないところとされ、物と物、物と銭を交換しても、あとぐされがない、ということで、商いをする場所として、発展した。

おもしろいのが、もし人びとの生活の中で物の交換が行われ、物を贈ったり、お返しをしたりすれば、人と人との個人的な結びつきが強くなってしまい売買にはならない、という理由で、ものの交換や売買を行う場所として、この世の縁とは無関係な場所が選ばれた、といういきさつ。

そういう、ひとの生活意識をベースに、社会がどう構成されていったか、という描写がとてもおもしろい。

今村仁の著書にある、貨幣と死の関係が、どうしても実感として理解できなかったけれど、これを機にもう一度読み直してみようかな。

人間はしばしば弱く、かつ間違っている。

 

内田樹さんのブログにあった、村上春樹のエルサレム賞の受賞スピーチ。
からだの芯にずっしりきた。

Between a high solid wall and a small egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg. Yes, no matter how right the wall may be, how wrong the egg, I will be standing with that egg.

「高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。そうです。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。」

このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。

たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。
こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。
彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。
しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。
経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。
そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。
それが「本態的に弱い」ということである。
村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。
それは政治学の用語や哲学の用語では語ることができない。
「物語」だけが、それをかろうじて語ることができる。
弱さは文学だけが扱うことのできる特権的な主題である。
そして、村上春樹は間違いなく人間の「本態的な弱さ」を、あらゆる作品で、執拗なまでに書き続けてきた作家である。
(内田樹の研究室 2009/2/18 「壁と卵」より抜粋)

自分のものであっても、他人のものであっても、「弱さ」によりそいたい。
そう思ってはきたが、

「たとえ間違っていても私は弱いものの側につく」
果たして自分は、ここまで言いきれるだろうか。

労働

 

大学院を卒業したての頃、「仕事」に対するスタンスを決めかねている時期があって、今村仁さんの著書を読み漁っていたと思う。

そして、そろそろ、会社でのポジションが上がってくる同年代のともだちから、部下や被雇用者のモチベーションが低いという事態にどう対処したら良いのか、という相談を(なぜかわたしが)受けることが多くなった。そういう事情もあって「労働」に対する関心がずっと横たわっていたのだけれど、先般、内田樹さんのblogにおもしろい文章を見つけた。

仕事の苦楽は仕事そのものによって決められるのではない。
その仕事を「やらされている」のか、「やらせていただいている」のマインドの違いによって決される。
私はいつも仕事は「やらせていただいている」というふうに考えている。
そういうふうに考えるのは当世風ではない。
当今の方々は「労働」と「報酬」が等価交換されるという図式で労働を捉えている。
ならば、雇用する側は「どうやって報酬を引き下げるか」を考えるし、雇用される側は「どうやって苦役を軽減するか」を考える。
そうなるほかない。
そういうつもりの人間たちが集まって仕事をしても、ぜんぜん楽しくない。
「働くモチベーションが下がる」のは当たり前である。

労働と報酬は「相関すべきである」というのは表面的にはきわめて整合的な主張のように見えるが、実際には前件の立て方が間違っている。
等価交換論の前件は「労働者はできるだけ少ない労働で多くの報酬を得ようとし、雇用者はできるだけ少ない報酬で多くの労働力を買おうとする」というものである。
そんなの常識ではないかと言う方がおられるかもしれない。
あのね、そんなの少しも常識ではないのだよ。
もしそうなら、人類の生産力と生産関係は新石器時代で停止しているはずだからである。
とりあえずそこらへんの木の実を拾ったり、魚を釣ったり、小動物を狩ったりして飢えが満たされるのなら、誰が分業だの企業だの資本だのというめんどうな制度を作り出すであろう。
労働は「オーバーアチーブ」を志向する。
飢えが満たされても満たされないのである。
もっと働きたいのである。
そういう怪しげな趨向性を刻印された霊長類の一部が生産関係をエンドレスで巨大化複雑化するプロセスに身を投じたのである。
どうして「そんなこと」を始めたのか、私は知らない(たぶんマルクスも知らない)。
とにかく、そういうことになった。
だから、労働と報酬の等価交換が成り立つべきだという「整合的な」理説で労働を説明することはできない。
( 以上、内田樹氏のblog http://blog.tatsuru.com/から抜粋 )

デザインや、写真、さらに作品となると、価値づけが非常に難しく、「等価交換」なんて厳密には不可能なので、「労働と報酬の等価交換が成り立つべき」などという前提は、一旦脇に置いているつもりだったけれど、というより、その前提を脇に置かないことには、(コストパフォーマンスに拘泥していると)自分自身の進歩が望めないということに、徐々に気づきはじめていたのだけれど、完全に無視はできなかったし、無意識のうちに寄りかかっていっていたのかもしれない。

こう潔く否定されると、すっきりするな。その前提を完全に取り除いたら、あたらしく視界がひらけるかもしれない。

呪詛と祝福

 

偶然看板を見かけたので、用事を済ませたあとで、内田樹さんと釈徹宗さんの講演会「呪詛と祝福」の最後のほうだけ、ちょこっとのぞいてみた。

釈さんのほうが話していたと思うけれど、「単純に、人間のこの身体を80年保ち続けるのには、人間はエネルギーを持ちすぎている。だから過剰なエネルギーを、分配、贈与というかたちで放出しないと、そのエネルギーが呪詛へと向かってしまう。」というようなことを言っていた。

なるほど、と思う。

制作に向かう時間と労力を確保するため意図的に「閉じていた」この数年を振り返って、反省するところが多い。そして、少し方向を変えてみようと考えはじめた矢先に、こういう言葉と出会う。

自分のエネルギーを自分のためだけに囲うのではなく、他者に分配・贈与することによって、少なくとも自分が他人に呪詛をかける(他人の不幸を喜ぶ)ような事態は避けられるのかもしれない。

昔、ともだちが賞をもらったときに、周囲があまりそのことに好意的ではなかったこと、わたしはその事態にショックを受けた。

どうして素直に祝福できないのか。

そのときから、身近なひとの幸福を祝福できなくなるくらい余裕を失ったらあかんやろ、という危機感を強くもって、祝福するべきタイミングには、大いに祝福するよう努めてきたのだけれど、この講演会で、「呪詛を解くのには祝福しかない」と聞き、わたしは、知らず知らずのうちに呪詛から逃れて来られたんやな、と思った。

そして、今年になってようやく、我が家には祝福の季節が訪れ、ふたつの結婚と、ひとつの生命の誕生が約束された。

弟の結婚式で賛美歌を歌いながら、3年前のいまごろ、家族がいちばん危機的な状況であったことを思い出し、その頃のわたしたちには決して想像もできなかったこの幸せな事態に、胸が詰まった。

この日の祝福と感謝の気もちを、いつまでも忘れぬように。

文化っていったい何だろうな

 

帰りに六本木に立ち寄った。混雑がひどかったために森美術館の展示は見送って、ミッドタウンに足を運ぶ。

少し歩いただけでだいたいのところがわかったので、その界隈までフラフラと足をのばすと、どこからともなく、太鼓の音がきこえてきた。

音の出どころは、少し遅めの盆踊りだった。ミッドタウンから、ほんの一筋入ったところ。飲食店やら商店の並ぶ街路の一角で、地元のひとがたくさん、浴衣で踊っていた。

そのにぎわいにほっとしたのと同時に、文化っていったい何だろうな、ということを考えさせられた。

商業と抱き合わせの文化施設と、地域の生活に根ざした祭りと。ほんの一筋道を隔てただけの場所で”文化”と呼ばれうるものの両端に接し、そのコントラストに目眩を覚える。

文化っていったい何だろうな

サービスなんかじゃない。

 

近所に、長谷食品という小さなスーパーがある。

けっして割安ではないそのお店。
でも、わたしは好んで足を運ぶ。

わたしのうしろに並ぶお年寄りの女性に、店員さんが話しかけている。

「さっき、娘さんが牛乳2パック買って行きはったよ。それ知ってはる?」
「いや、知らん。」
「ほんじゃ、牛乳、カブるんじゃない?」
「せやな。戻しとこか。」

そういうやりとり、今まで何度も見かけた。
レジで小銭を一生懸命探すお年寄りを、けっしてせかさない。
お年寄りのお客さんが多く出しすぎたら、大きめの声できちんと金額を説明して、
出しすぎたお金を財布に戻してあげている。
手が空く時間は、話あいてにもなっている様子。

それが、御所南、京都のド真ん中にある。

お年寄りの生活をそっと見守るこのお店には、
「サービス」や「顧客満足」なんて薄っぺらなことばは似合わない。

ひととひととが思いやり、いたわりあって生きる、ただそれだけのこと。
サービスなんかじゃない。

マニュアル化されたサービスで埋め尽くされた店にはない安心感が、そのお店には、ある。

20時、食品売り場。

 

20時、食品売り場。
異様だった。

どこか身体の具合の悪そうな年配の女性たちが数名、
おのおのが半額になったお惣菜をじっと見つめて吟味している。

仕事帰りのOLやサラリーマンに混じって、
相当、年配の女性が普段着で、
そんな時間にスーパーの食品売り場にいるのが、
それも一人や二人じゃないのが異様だった。

お昼に買い物ができないくらい忙しいわけじゃない。
遅い時間に半額になるまで待って買いものに来ているんだと思う。

ほんとうに保護や補助が必要なはずのところが削られていることは明らかで、
それを目の当たりにして、いまさら、わたしはうろたえた。

しつこいかもしれないけれど、
いちばん立場の弱いひとに皺寄せをして、帳尻をあわあせるのは
最悪のシステムだ。

そんな国にしたのは、そんな政治を許したのは、
ほかでもない、わたしたちだ。

寒くない冬

 

新装開店のコーヒーショップでシンプルなエコバッグをもらったのをきっかけに、買い物の際は、そのバッグを持参し、なるだけポリ袋をもらわないようにしている。

さすがにこの寒くない冬に危機感を感じて、いままで「一人暮らしだし、少量だからいっか」と、あまり気にしていなかった牛乳パックもリサイクルにまわすようにしはじめた。

そうやって、少しずつでも具体的に社会にかかわりゆこうとすることで、自分の属する社会や、果ては地球にまで思い入れができてくる。

星の王子さまが、
あの一輪の花が、ぼくには、あんたたちみんなよりも、たいせつなんだ。だって、ぼくが水をかけた花なんだからね。覆いガラスもかけてやったんだからね…と言うくだりがある。

たいせつなものは、すでにたいせつなものとしてわたしの前に出現するのではなくて、たとえ最初はなんでもなかったものでも、たいせつに「する」というわたしからの積極的なかかわりによって、たいせつなものに「なっていく」のだということ。少し実感した。

システム

 

年末年始、暇つぶしにめくった青木雄二の著書に、なんぼうまくいかなくても倒産しても、いちばん弱いもの、従業員に皺寄せがいくかたちで倒産したらあかん、と書いてあった。

最近つくづく思う。
不具合を末端のひとに皺寄せすることで帳尻をあわせるシステムがどれほど多いことか。小泉改革なんてその最たるものじゃないかと思う。

そして、久しぶりに読んだ鷲田清一の著書のなかで、山本理顕の『細胞都市』からひいている一節が目に留まる。

「今の社会のシステムというのは、家族という最小単位が自明であるという前提ででき上がっている。そして、この最小単位にあらゆる負荷がかかるように、つまり社会の側のシステムを補強するように、さらに言えばもしシステムに不備があったとしたら、この不備をこの最小単位のところで調整するようにできているのである。だから、家族が社会の最小単位としての役割を果たせなくなっているのだとしたら、それは、社会の側のシステムの不備を調整することがもはやできないということなのである。」

システムの末端で起こっていることを、末端の責任として取りざたすることが多い。システムの不備は、いともかんたんに末端を担うひとの不備としてすりかえられる。

目先のことより少し大きな枠組みに目を向けること。
自明なことを疑うこと。

そして自分がどんな立場であれ、どんなにささやかなことであれ、どんな大義名分があるにしても、いちばん弱い者に皺寄せのいく仕組みにしないこと。

発言すること。