LISA SOMEDA

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無時間性

 

いつだったか、WEBでRIVERSIDEの作品を観てくださった方に「写真なんですか?絵だと思っていました。」と言われたことがあって、そのときは「写真です。」と答えたものの、編集していると絵のように見えることがある。その事象についてはなんとなくやりすごしてきたが、もしかしたら考える糸口になるかもしれないということばに出会った。

無時間性

そのことばがひっかかったのは、RIVERSIDEの編集中、信号機の赤、少年が跳び上がる瞬間や時計といった、時間を意識させるものを画面の中に見つけたときに、ハッとすることがあったから。そういうものに反応するということは、わたしは自分が撮った写真を無時間的なものと見なしているのではないか?と。

СНЕГ
Spring has come!
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Spring has come!
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Spring has come!
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Spring has come!
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また、はじめて展覧会を開いたときに、会場を提供してくださった企業の方から「三条大橋とか、場所の名前入れたほうが良かったんじゃないですか?」と言われたことがあり、写真が地図のように見えたんだと思ったが、地図ととらえるなら、まさに無時間的だ。

ソフトフォーカスは、写真という媒体が得意とするはずの細部描写を敢えて放棄することで、白黒写真を木炭デッサンと見紛うものに変えることもできる。だが、福原の作品の場合、ソフトフォーカスは写真を絵のように見せるためというよりは、無時間性の印象を補強するために用いられている。第一に、ソフトフォーカスの写真は、写真画像と、我々が肉眼で見ている世界の光景のあいだの差異を拡大することで、前者がまるで別世界の出来事であるかのように見せる。この別世界において、我々が暮らす世界と同じようなペースで時間が流れているのかどうか、我々には知る由もない。第二に、ソフトフォーカスの写真では多くの場合、それがごく短い時間で撮影されたことを示す証拠が画面から取り去られている。マーティンの《海老の籠を運ぶポーター》を例に見たように、人物の表情、洋服の裾といった要素は、ある写真が瞬間的に—おそらく数分の一秒以下の短い時間で—撮影されたことを示唆する。そういった要素はしばしば微細なものであり、ソフトフォーカスによって細部が抑圧されると同時に、写真から消え落ちてしまう。

(『ありのままのイメージ: スナップ美学と日本写真史』 甲斐義明著 東京大学出版会 2021 pp.27-28より抜粋)

無時間性ということばは、ソフトフォーカスの技法についての説明とあわせて出てくるが、ここで注目したいのは、瞬間的に捉えたことを示唆する微細な要素が抜け落ちると無時間性の印象が補強されるということ。

わたしは細部をとらえることにこだわりがあるからソフトフォーカスは用いないが、40mほど離れた被写体を撮るので、必然的に人物の表情や洋服の裾といった微細な情報は脱落する。(その意味では、近距離より遠距離の被写体のほうが無時間性を帯びやすいと言える)

さらに、自転車のような動く被写体は、なるべく像が流れないよう速めのシャッタースピードで撮る。すると「動き」を感じさせる要素も抜け落ちる。上述のソフトフォーカスの話とは逆に、細部をとらえようとすることが、無時間性の印象を補強することにつながっている。

いっぽう、隣接する写真が異なる瞬間に撮られたものであること(時間性)をはっきりさせておきたいという気もちもある。

プリントの工房で「雪は難しいでしょう。つなげるときに濃度が揃わないから。」と言われ、いやむしろ吹雪に緩急があって写真の濃度が揃わないほうがおもしろいと思ったときに、自分が求めているのが滑らかにつながるひとまとまり(全体)ではなく、ひとつひとつの写真が独立しつつゆるくまとまりを仮構する構造であると自覚した。そして、それぞれの写真の独立性は時間性に拠っている。

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無時間性を帯びやすい方法で撮りながら、写真どうしの関係においては時間性を拠りどころとしている。そのことが明らかになったのは前進だと思う。絵のように見えることと無時間性のつながりについては、またあらためて。

冬がおかしい。

 

今朝ようやく、はつゆきらしきものが舞うのを見た。
来週末、バレンタインの京都は最高気温21度の予想。

冬がおかしい。

近年、札幌を契機にサンクトペテルブルク、オタワと、都市の雪景を撮り続けているが、
そこには、雪をとおして風景を見る、不可視性云々、といった関心とは別に、

もしかしたら、これからだんだん雪が降らなくなるかもしれない。
雪で覆われた都市は、失われた風景になるかもしれない。
という切迫感がある。

もちろん、そんな状況は全力で回避すべきだと思っているが、すでに近年の京都で雪景を撮るチャンスはほとんどない。
思ったよりもずっと早く、失われつつあるのかもしれない。

なんだかほっとする

 

マルシュルートカから地下鉄に乗り継ぐЧёрная Речка(チョールナヤ レーチカ)の駅前。撮影の行き帰りに通る駅なので、帰りにこれを見かけると、なんだかほっとする。いつの間にかヒゲ生えとるし。

雪遊び

 

最初、木にひっついている目と口っぽい造作を見たときに「たまたま?」と思ったけれど、いくつか同じようなものがあったので雪遊びなんだと確信。

play in snow 染田リサ

こちらはベースに色をつけている。

play in snow 染田リサ

滞在中に見た中で一番いいなぁと思ったのは、この木にへばりついている謎の動物。しかも、脚がはずれたりしていたら、通りすがりの子どもがちゃんと補修していた。

play in snow 染田リサ

クロンシュタット

 

kronstadt 染田リサ

フィンランド湾に浮かぶコトリン島の中にクロンシュタットという街があります。要塞だったのでお堀に囲まれているゾーンがあり、レジデンスはこのエリアに位置します。サンクトペテルブルクの市街地へは、マルシュルートカ(K-405)と地下鉄を乗り継いでおよそ1時間半。

ところで、以前、ブリューゲルの雪景の絵を見たときに「ほんとうにこんな色なんかなぁ?」と疑ったことがあったけれど、ほんとうにこういう色に包まれることがあるのね。

旅をして、はじめて知る光の色があるなぁ。

ようやく雪が。

 

聞くところによると、1月には-25度まで下がったというのに、到着した時点では雪はほとんど残っておらず。気温も3度と例年よりも高く、「このまま春になるかな」と茶化されたりしたこともあって、不安に思っていたところ、ようやく雪が。

snowfall 染田リサ

第3回札幌500m美術館賞グランプリ展「SNOW」

 

おかげさまで無事、
第3回札幌500m美術館賞グランプリ展「SNOW」オープンしました!

2015年4月24日までの開催となります。
お近くにお越しの方は是非ご高覧賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

同時開催されている田村陽子さんの「記憶する足形」も素敵な展示なので、ぜひ!

場所:札幌大通地下ギャラリー500m美術館
会期:1月31日(土) 〜 4月24日(金) 無休
時間:7:30~22:00 ※最終日は17:00まで
料金:無料

札幌大通地下ギャラリー500m美術館
http://500m.jp/exhibition/3263.html

展示風景 撮影 松村康平
撮影 松村康平

小さな劇場

 

見てすぐにパシャっと撮るのではなく、
三脚を立ててピントをあわせるのにじっとファインダーをのぞいていると、
ファインダーの中に、人やものがこまごまと動く小さな劇場みたいなのが出現する。
(たぶん、あまり遠近法的な構図ではない場合によく出現すると思う)

デジタルのファインダーだと、それが映像のようにも見えるのだけれど、
中判を使っていた頃から、なんかこの暗いハコの中に小さな劇場があるな、とうすうす気づいていた。

そして、その小さな劇場の中で人が動いたり、ものが動いたりしている様が、なんとも愛おしいのだ。
もう、実に実に愛おしい。

雪の中、対岸の建物のタイルの目地を目安にピントをあわせながら、
ピントをあわせるために凝視する、その所作にともなう時間に「幅」があるからこそ、その小さな劇場の存在に気づけるのかもしれないな、と、あらためて思った。

Lサイズの流星

 

返却期限がきていたから、
空の案配を見て、DVDを返しに出かける。

出がけには降っていなかったのに、
レンタルショップにつくころには、大きな牡丹雪がマントに白く積もっていた。

結局、タイミングをはずしたなぁ…と思いながら、
返却の手続きを済ませる。

本屋をのぞいて、店を出ると、
さっきまでの雪がうそのようにあがっている。

雪上がりの星空は、綺麗なんだ。

せっかくだから少し歩こうと思い、
自転車を押して南へ下る。

すると、空にすぅっと一筋。

流星?こんな時期に?
半信半疑で空を見上げていると、
さらに大きな流星が、これでもかというくらい、ゆーーっくり、
長いしっぽを見せびらかすように、流れた。

トロいわたしでも願いごとができるくらい、充分スロウに。

すごい…今日のはLサイズ。
そのうえサービス精神旺盛や。

圧倒されて、愉快だった。

すっごい良いことがありそう、とかではなく、
自分を信じてもいいような気もち。信じてがんばろうという気もち。
そういう気もちにさせてもらった。

丸太町まで戻って来たところで、また雲が空を覆いはじめ、
大ぶりの雪が舞い降りてきた。

Lサイズの流星を見せるために、ほんの一瞬雪がやんだような、
天国にいる誰かさんのはからいを感じさせる、そんな夜やった。

雪の音を聴いてみる。

 

「ほんとうに雪はしんしんと降るのか?」

耳を澄ませて雪の音を聴いてみる。

舞い降りる瞬間の音は、スチャッ、スチャッ。
少し雨まじりだから、湿った音がする。

きっともっと細かい雪でも、
いちばんリアルな音は顔やからだにふりかかる音だし、
雪の降るなかにあるひとにとって、雪の音は、もっと具体的。
しんしん、ではない。

あとから気づいたけれど、きらきらと星が輝く、のきらきらは擬態語。
ゆらゆら揺れるの、ゆらゆらも擬態語。
同じように、しんしんも、擬音語じゃなくて、擬態語。

きらきらは煌めき、ゆらゆらは揺れる、ということばからも類推されるけれど、
しんしん、はどこから来るんだろう。

ひとつ言えるのは、そんな上品な表現は、
窓から外の雪を眺めているひとにとっての音景なんじゃないかということ。

今日も帰り道、雪にふられたけれど、雪の最中にあったら、
擬態語だとしても、きっと、「しんしんと」は使わないなと思う。

さて、長くなったけれど、
最中にあるひとと、それを傍観するひととでは、
表現に差があるということを考えていたのです。
ひとがどのポジションに身を置いているかは、
その表現のなかで、あからさまに露呈する。

よくも、わるくも。

わたしは少しせつなかった。

 

夕方、家にたどりつく間際、空から雪が舞い降りる。
もう啓蟄だというのに。

肩に残るはかない雪の気配が
冬になりきれなかった冬の、最後に見せた意気地のようで、
わたしは少しせつなかった。