LISA SOMEDA

中南米 (8)

経験識閾

 

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳 みすず書房 2012)の以下のくだりは、ものすごく興味深い。それぞれの文化のなかで、(ふだん意識していないが)ものごとを認知するうえで何に重点を置いているか、ということが言語からあからさまにわかる例。

(前略)マッチの火が瞬いて消えそうになる。男たちは、「マッチがイビピーオする」と言った。別の晩にも、消えかかるキャンプファイアーを前に、この言葉が同じように使われた。このような状況では、イビピーオは副詞として用いられてはいなかった。

(中略)ある物質が視界に入ってくる、または視界から出ていくという状態を表すために使われるものなのだ。誰かが川の湾曲部を曲がって現れるのは視界に入ってくることだし、それならば何かが視界から消えるとき、たとえば飛行機が水平線の彼方に見えなくなるのにピダハンがこの表現を使うのもうなずける。
(p183から抜粋)

イビピーオは、ぴったりと重なる英語の見つからない文化的概念ないし価値観を含意していると思われる。もちろん「ジョンは消えた」とか、「ビリーがたったいま現れた」という言い方をすることはできる。しかしこれはイビピーオと同じではない。第一に英語では「消えた」というときと「現れた」というときに別々の言葉を用いるのだから、両者は別々の概念だ。またここが肝心なのだが、われわれ英語圏の話しては、現れたり去って行ったりする人物のほうに焦点を当てていて、誰彼がわれわれの知覚の範囲に入ってきたとかそこから出て行ったとう事実に着目しているのではない。

最終的にわたしは、この言葉が表す概念を経験識閾と名付けた。知覚の範囲にちょうど入ってくる、もしくはそこから出ていく行為、つまり経験の境界線上にあるということだ。消えかかる炎は知覚経験のうちと外を絶えず行き来する炎なのである。
(pp.183-184から抜粋)

現れる、あるいは消えるという現象に重きをおくピダハンの認知のありようから、翻って、自分の属する文化の認知のありようはどうなのか?と、考えるきっかけになる。

認知と文化

 

先の『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳 みすず書房 2012)から、認知と文化に関する記述で気になったところを書き留めておく。

“写真を読み取るという一見ごく誰でもできそうなことの背景にも、文化が色濃く関わっている”

アナコンダを流木と見誤ったこの経験から、わたしは心理学者がとうの昔に知っていた事実を教わった。認知とは学習されるものなのだ。わたしたちは世界をふたつの観点から見聞きし、感じ取る。理論家としての視点と宇宙の住人としての視点と。それもわたしたちの経験と予測に照らし合せて見ているのであって、実際にあるがままの姿で世界を見てとることはほとんど、いやまったくと言っていいほどないのである。
(p.314から抜粋)

わたしのような都会人は、道を歩く時には車や自転車、ほかの歩行者には注意を払うが、爬虫類を警戒はしない。ジャングルの道を歩くときに何に気をつければいいのか、わたしにはわからない。この夜のことも、認知と文化に関する教訓であったわけだが、とはいえそのときにはそれをはっきり意識していたわけではなかった。わたしたちは誰しも、自分たちの育った文化が教えたやり方で世界を見る。けれどももし、文化に引きずられてわたしたちの視野が制限されるとするなら、その視野が役に立たない環境においては、文化が世界の見方をゆがめ、わたしたちを不利な状況に追いやることになる。
(pp.345-346から抜粋)

都市の文化的社会ではジャングル暮らしの秘訣が身につかないように、ピダハンのジャングルを基盤とした文化では都会生活への備えがうまく身につかない。西洋文明育ちなら子どもでもわかるようなことが、ピダハンにはわからない場合もある。たとえば、ピダハンは絵や写真といった二次元のものが解読できない。写真を渡されると横向きにしたりさかさまにしたりして、ここにはいったい何が見えるはずなのかとわたしに尋ねてきたりする。近年彼らも写真を目にする機会が増えてきたので、だいぶ慣れてはきたが、それでも二次元描写を読み解くのは、彼らには難儀なようだ。(後略)

写真を読み取るという一見ごく誰でもできそうなことの背景にも、文化が色濃く関わっていることが、ここからもわかる。
(pp.347-348から抜粋)

ピダハン

 

ずっと読みたいと思っていた『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳 みすず書房 2012)。

ピダハンには「こんにちは」「ご機嫌いかが」「さようなら」「すみません」「どういたしまして」「ありがとう」といった交感的言語使用が見られない(感謝や謝意、後悔の気持ちは言葉ではなく行動で示す)。彼らは色の名を持たず、数を持たず、左右の概念を持たない。また、彼らは精霊を見ることができ、夢と日常をほぼ同じ領域のもの、同じように体験され、目撃されるものととらえている。絵や写真といった二次元のものを解読できないが、暗闇の中で30m先に佇むカイマン(ワニ)の存在を感知することができる。

伝道のためにその地に赴いた著者が、最終的には無神論者になってしまう結末は小気味いい。”ピダハンは類を見ないほど幸せで充足した人々だ”と著者に言わしめるほど幸せに見え、そもそも迷える子羊ではなかったのだ。

どれも興味深いのだけれど、その中でもいちばん興味深いのは、ピダハンの文化では体験の直接性が重んじられること。

ピダハンは食料を保存しない。その日より先の計画は立てない。遠い将来や昔のことは話さない。どれも「いま」に着目し、直接的な体験に集中しているからではないか。(p.187から抜粋)

ピダハンの言語と文化は、直接的な体験ではないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。(p.187から抜粋)

叙述的ピダハン言語の発話には、発話の時点に直結し、発話者自身、ないし発話者と同時期に生存していた第三者によって直に体験された事柄に関する断言のみが含まれる。(pp.187-188より抜粋)

そして、色名や数を持たない理由が、この文化的制約に結びつく。

ここに挙げられたピダハンの表現をできるだけ逐語的に訳すと、「血は汚い」が黒、「それは見える」または「それは透ける」が白、「それは血」が赤、そして「いまのところ未熟」が緑だ。

 色名は少なくともひとつの点で数と共通項がある。数は、数字としての一般的な性質が共通するものをひとまとめに分類して一般化するものであって、特定の物質だけに見られる、限定的な性質によって区分けするわけではない。同様に色を表す表現も、心理学や言語学、哲学の世界で縷々研究されてきたように、多くの形容詞とは異なり、可視光線のスペクトルに人工的な境界線を引くという特異な一般化の役割をもっている。

 単純な色名がないとはいえ、ピダハンが色を見分けられないとか、色を表現できないというわけではない。ピダハンもわたしたちと同じように身のまわりの色を見ている。だが彼らは、感知した色を色彩感覚の一般化にしか用いることができない融通の利かない単語によってコード化することをしない。その代わりに句を使う。(pp.169-170から抜粋)

直接体験したことを話すのに、すでに一般化された単語では用をなさないということか。思わず太字にしてしまったこのくだりが、ものすごく刺さった。

チマチマ

 

おみやげ

ブラジルみやげをいただく。

左のコーヒー豆はどっさり1kg。
そして右は、ブラジル…と言えばのビ☆ニ。
どちらもパッケージが綺麗なのがうれしい。

雑誌なんかでは、色のどぎつい、大味なデザインの安っぽい雑貨が紹介されていることが多いのだけれど、案外、ラテンアメリカのもの、綺麗な色づかいでデザインの良いものが多いのだよ。

なにより、デザインがおおらかなのが良い。

日本にはチマチマしたデザインが多いし、自分でデザインをしているときも、手を加えれば加えるほど、チマチマしてくることが多い。

そういうときに、はっとするきっかけになるのが、こういう海外のちょっとしたもの。
どうしたらもっと、おおらかで、繊細で、うつくしいものが、作れるようになるんだろうな。

ぺルーめし

 

昨晩は来客があったので、久しぶりにぺルー料理をつくってみた。
ほんで、今日はその残りものがお昼ごはん。

セビッチェとアヒー デ ガジナ

手前の海鮮サラダのようなものが、セビッチェ(Cebiche)。奥がアヒー デ ガジナ(Ají de gallina)。セビッチェは白身魚をレモンでしめて、トマト、たまねぎなど生野菜と和えたもの。たまたま鯛が安かったので、今回は鯛でつくってみた。コリアンダーは嫌いなひともいるので、混ぜずにトッピング形式にしておく。

アヒー デ ガジナには、鶏のムネ肉をゆがいて割いたものが入っている。アヒー(とうがらし)が入っているので、もちろん辛い。カレーのようなとんがった辛さではなくて、くちあたりよくマイルドだけれどじわっとくる辛さ。来客ふたりは最後まで「カレー」と呼んでいた。

昨晩はこれにプラスじゃがいものビシソワーズ(ぺルー料理ではない)、という献立だったのだけれど、いちばんうまくできたのがビシソワーズというのが、なんとも複雑なところ。

ひとに食べてもらう、と思うと、料理って気合いが入るもんやね。

ラテンチャンネル

 

インターネットラジオのラテンチャンネルをずっと流していたからだろうか。
急に、リマの記憶が鮮明な映像としてあふれだした。

タクシーの黒い合皮のシートの質感とか、
排気ガスの臭気にあたってぐったりしながら、
見上げた位置に流れる街の景色。

たぶん、5,6歳の頃の記憶。
なのに、妙に生々しくて懐しくて。

南米で暮らしたその時間は、生も死もはるかに近くて、
幼いわたしにもわかるくらい、色気に満ちていた。

パネトン

 

ちょっと、神戸のパンを食べたいきもちになったので、
大丸のDONQに寄ってみたら「パネトーネ」が並んでいた。

このお菓子、もともとはイタリアのものらしいけれど、
ペルーでは「パネトン」と少し歯切れの良い音で呼ばれ、
クリスマスのころに食べていた。

懐かしくて、試しに買って帰ったら、見事にハマる。
オレンジのほのかな香りが食欲をそそり、
ほんのり甘いくらいの優しい味なので、朝食にも◎
少しトーストしてバターを添えて食べています。

それほど特別なものではないのだけれど、
クリスマスの記憶とゆわえられてるから、そのぶん余計に美味しい。

リーガのパネトーネも買ってみたけれど、DONQのほうがふんわりしている。
けっこう手間がかかるようだけど、自分でつくれるようになりたいな。

キューバに行きたくなった。

 

R座、二度目の訪問。

一度訪れると、ハードルは低くなるもので、
日曜日の夜、みず知らずのひとと並んで映画を見るのが、楽しみになってきた。

サルサ!という映画、
タイトルのとおりのダンスムービーやけど、ダンスムービー特有のストーリーの安っぽさもなくて、気持ちよく見られた。フランス映画だし、少し、アフロアメリカンの描きかたに偏りを感じたけれど、青春恋愛映画としては、充分。ほんで、こんな機会がなければ、青春恋愛映画なんて、自分では絶対に見ないから、新鮮やった。オトも良い。

ところどころ、ききとれるスペイン語の響き。
キューバに行きたくなった。

日本はチマチマしてていややな、と、
ペルーから帰国したころから20年間ずっと思っていたから、
中南米、行ってしまったら、帰りたくなくなるだろうね。

35歳までに、メキシコとキューバと。

サルサ!