心をこめる

その日は、保育の仕事をしている友人と話をしていた。

休日に仕事を持ち帰ったという話をきいて、家に持ち帰らなければならないほど仕事量が多いのかと問うたところ、
新学期の帳面に子どもたちの名前を書くの、バタバタしている仕事中ではなくて、心をこめて書きたいから。という返事がかえってきた。

心をこめて名前を書く

という話が、おそろしく新鮮に聞こえるくらい、心をこめて何かをする、ということからわたしは遠ざかっていた。

彼女曰く、テキパキと合理的に仕事をするよりも、心をこめて名前を書くようなことのほうが、むしろ自分にできることなのではないか。と。

そのとき、わたしは虚をつかれた感じだったと思う。
わたしの仕事観のなかには、テキパキ合理的というチャンネルはあったけれど、ゆっくり心をこめて何かをするというチャンネルは、存在すらしていなかった。

少し話はそれるけれど、視覚表現に携わるなかで感じてきたことのひとつに、「ひとは、言語化されたり明示された内容よりも、その表現のもつニュアンスのほうに、大きく影響を受けるのではないか」というのがある。
たとえば、ひとが話をしていることばやその内容よりも、間の置きかたや声色、トーンといったもののほうから、より多くの影響を受けるようなこと。

そうであればなおさら、表現する立場のひとが「心をこめる」ことはとても重要だ。
受けとるひとは、心のこもっているものと、そうでないものを、とても敏感にかぎわける。

なのに、わたしはずっとそれをないがしろにしてきた。

心をこめる、ということをもう一度、考え直したい。

ひと

水曜日のテレビ番組で、「行政の大きなお金を使って大きなモニュメンタルな建築をつくって、本当にひとのためになっているのか?と自問していたことや、難民キャンプや震災の現場で紙管の構造体が利用されたことで、建築がひとの役に立つことを実感した
」という坂茂さんの話が印象に残っていた。

そして翌日、建築事務所を営む友人とご飯を食べながら話していたときに、その友人が、「最近、自分はかわってきたと思う。以前は綺麗なものが好きで、自分の設計した建物に趣味の悪いタンスが置かれてたらいやだなぁと思ったけれど、最近そういうのは気にならなくなった。むしろ、そこにひとがいることこそが大事やと思うようになった。」と言っていた。

どちらも、もの(作品)ではなく、ひとを中心に据えるというところで、共通していると思う。立て続けにそういう話を聞いたので、今日はずっとそのことばかり考えていた。では、写真はどうなのか?

もうひとつ、彼女に訊かれた「最終的にはどういうものを撮っていこうと思っているのか?」という問いも、意外と鋭く刺さっている。たぶん、いまの段階ではわからない。風景/ポートレイト/うんぬん…という既存の分類の中のひとつを選ぶような選択にはならないと思う。得手-不得手や、撮るもの-撮らないものはあるけれど、もっと違う分節の仕方をすると思う。その場では、そういうことをうまく説明できなかった。

彼女の問いはドキッとしたけれど、ものすごく嬉しかった。学生時代は仲間同士で相手の制作の核心に近いところまで遠慮なく切り込むことも多かったけれど、最近そういう問いを投げかけてくれる人はめっきり減った。
あるいは、わたし自身が避けていたのかもしれない。

赤いのは葉ではなく、

あっと言う間に秋も深まり。

えっちゃんと駒込で合流。
六義園のライトアップに行くつもりが、ライトアップには早いので、スペインバールに入ってしまう。まぁ、この方と会うと、だいたいどんな企画でも早い段階で酒が入るんだわな。

都合3時間半、ワイン片手にたわいもないことを話す。
大学時代の同級生女子は、「単位取得率の高い順に結婚しとる」という偉大な(?)法則を編み出す。結婚は計画性の問題なのだろうか。

本題の六義園のライトアップは、残念ながらまだ色づきはじめ。
「葉は赤くなっとらんが、わしらが赤くなっとる!」とはようゆうてくれたもんだ。横でえっちゃんが一生懸命葉が色づいているところを想像してるのが可笑しかった。

東京滞在もあと2ヶ月となると、会っておきたいひとと会うのに忙しくなってきた。来週末はナッちゃんとこに寄せてもらう。生まれたての赤ちゃんとの対面。楽しみでござる。

どうもありがとう。

今年もまたこの季節がやってきて、みなさまからあたたかいメッセージや、お祝いの品々をいただきました。どうもありがとうございます。

今年はなんとまぁ、立派なまげわっぱのおべんとばこだとか、本革のがま口だとか、

実用的で、かつ、渋いセレクトのプレゼントが、
京都から熊本から届きました。どうもありがとう!
(あ、所長にシーサーのガムももらったわ☆)

KUMAMOTOと書かれた、’からしれんこんポストカード’も秀逸です。

そして毎年恒例のように風邪をひく…(気温が下がる時季に生まれたんだよなー)

出町柳の北西角にいます。

そして結局、京都に帰りました。

四条河原町のノムラテーラーで、姪のワンピースにと素敵な花柄の生地を買い、大宮に戻って、三条会の「やのじさくえん」で麦茶とほうじ茶をオトナ買い。

オトウトの家に寄って自転車を借り、ロマンザで髪を切ってもらう。
進々堂でパンを買い、そのあと、出町柳でハルさんと待ち合わせ。

出町柳の北西角にいます。とメールを打つ。
空が広い。

「自転車じゃないと、なんだか疎外された気がするの」と言ってハルさんに「そういうところ寂しがりやなんだ」と嗤われる。

下鴨神社に行ったものの、その蛍は「放流モノ」と知り落胆。
気を取り直して、疎水に向かうがすっかりフラれ、最後、哲学の道に向かう途中で穴場スポットを発見。

蛍が舞っている。

ふーわふーわ舞いながら、光をともしたり、すっかりひかえてしまったり。
はかなげな様子にぐっと魅きこまれる。

たしかあの夜も蛍を見た。
鴨川を自転車を押しながら歩いていたとき、蛍を、そして、つがいのカモを見たのだ。

つんと胸が傷む。

また出町柳に戻り、年代もののビートルズバーで軽い夕食をとる。

この土地で出会ったひとは、みなウルトラ繊細でやさしいひとたちばかりだったんだ、と、あらためて思い知る。
ほんのひとときの穏やかでやさしい時間。

クロールの息つぎ

大手町で待ち合わせて、なっちゃんと会う。
新丸ビルで会うのはこれで2回目。
なんだかんだ、間を置かずに大学時代の友人と会っている。

いよいよ、のおなかを大事そうに抱えて現れたなっちゃんは、
あいかわらず、わたしより年下なのに、ずぅっと大人。
ほんの少しほっとした。

幼稚な関係性のなかに引きずり込まれて、知らず知らずのうちに、自分もずいぶん幼稚になっているんじゃないか、傲慢になっているんじゃないか。そんなふうに自問自答をする日々を過ごしていたから。

相手が幼稚だからって、幼稚な態度で接していいわけではないのだ。
相手が傲慢だからって、傲慢な態度で接していいわけではないのだ。

なのに。
いまのわたしは状況に甘んじて、無自覚のまま、少しずつ少しずつ、幼稚に、そして傲慢に、なっていってると思う。

友だちのおかげで、見失いかけていた自分の本来のポジションを、確認することができたと思う。

つかの間の休息は、まるでクロールの息つぎ。
もうちょっと先まで、泳げるかなぁ。

キュウちゃんと夜茶

ちょっと近くまで来たので、ご挨拶を。というメールが届く。
老人会(という名の同窓会)のキュウちゃんだ。

遠くに住まうことの利点のひとつは、近くに住んでいたら会わずにいるひとと、会うきっかけができることだと思う。

自転車で待ち合わせ場所に向かおうとしたら、道に迷う。余裕をもって40分のつもりが、都合1時間10分自転車をこぎ続けて無事到着。

どちらもお酒が強くないので、ケーキセットで夜茶コース。ちょっと仕事の話やら、結婚の「け」の字もないです報告やら。

気持ちはあっても無精者ばかりの老人会。
こうやってマメに連絡をくれるキュウちゃんが、かろうじてご縁をつないでくれているのだ。

どうもありがとう。
気をつけて帰ってね。

節分

太巻

節分です。
今年のホームメイド恵方巻の参加者は、
しいたけ
みつば
たまご
うなぎ
です。

お米二合で、太巻4本。

とりあえず、写メで記念撮影。
すると、熊本に住む妹から「我が家の自慢の太巻」写メが届く。
妹は関西を離れて、余計に関西を意識しだしたのでしょう。ふふふ。
写メを介し、ちょっとした太巻対決。

恵方巻なので、今年の恵方、西南西を向いて無言で食す。

意外とボリュームがある。

残り3本を横目で見つめ、途方に暮れる。
味が落ちないうちに食べ切るのは無理…。

ということで、
吉田神社の節分祭に行く約束をしていたハルさんに、1.5本献上することに。

吉田神社の節分には、日本中の神さまがやってくるそうです。八百万。
にぎやかでいいじゃないですか。

22時。百万遍で待ち合わせをし、まずは、本殿でお参りする。
そのあと、お菓子の神さまにも手をあわせて、
さらに八百万の神さまの集合場所らしきところに行って、お参り。

地方名とやたらと具体的な神さまの数(?)が書かれたお社を
よくわからないままに、ぐるぐるまわる。

寒いので、日本酒のぬる燗をいただき、
からだも温まって良い気分になったところで、23時。

飲食の神さまのところに少し寄ってから、メイン会場に向かう。

吉田神社の節分

2/3のメインイベント。激しくお札が焼かれています。
一年の無病息災を祈るそうです。

無事、この1年を乗り切れますように。

炎って、やっぱりテンションがあがる。
寒い夜だったから、あったかくてありがたい、というのもある。
炎のまわりは、ぎゅうぎゅう押されて大変でした。
(太巻の具材になった気分が味わえます)

純粋な信心だけでお参りしているのではなくって、
こういう行事っておもしろいんだと思う。

厄年にお参りした壬生寺の節分のほうらく割りだって、
すごく楽しかった。

炎であったり、やたらたくさんのお社であったり、
参拝者がおもしろいと感じる「仕掛け」がそこここにあって、
そこには、ちゃんとテンションがあがる要素や、
関心をひきつける要素が盛り込まれている。
そして、みな気分良くおさいふを開く。

積極的に、燃やすとか割るといった破壊行為がとられるのは、
そこに個々人の破壊衝動が転嫁されることで、
日常生活の「ガス抜き」の機能も果たしているのかもしれないと思った。

ひとを集め、ものを見せ、体験させるしくみとして、
お祭りとか寺社の年中行事だとかは、
相当練られたシステムだとあらためて思った。

え?このテンションは日本酒のせい?

ひとのありよう

なかば強引にハルさんを食事に誘い出す。

こんな紅葉まっさかりの季節に生まれてきたのに、
なんで寒色ばっかり好きなんやろ?

と尋ねたら、ハルさんは、
それでも、この季節は、玄関にいっぱい紅葉を敷き詰めてる。と言う。
あの落ち葉をふむカサカサという音が家の中で聞こえるのは、ちょっと楽しそう。


おかんの話。

何年か前の同窓会で、幹事をしていたノブちゃんが、
幹事の打ち上げの席で、感極まって泣きそうになったんやけど、
おてんばで名のとおったノブちゃんを人前で泣かしてはいけない、と思って、
かわりにわたしが泣いてん…という。

かわりにわたしが泣く???
(まぁ、他人に先に泣かれたら泣けなくなるものね…)
おかんって、そんなんやったっけ?
ほんまなら、ちょっといいやつやん…。

おかんで30余年、ハルさんは10年くらいのつきあいだけれど、
まだまだ知らないことがいっぱいあるんやなぁ、と思う。

ひとのありようにこころが触れる、ということは、
このところめっきり減っていたのだけれど、
これは、たてつづけにふたつ、ほんのりこころがあたたまった。

はじめての麦わら帽子

幼なじみから本が届く。タイトルは『はじめての麦わら帽子』

本をいただく、というのはとても嬉しい。作業の手をとめて少し読んでみる。
しばらくして、思い直して、表紙カバーを脱がす。ふふふ。

表紙カバーの絵がらの淡いオレンジと花ぎれの色、
同じく表紙カバーの水色と本体表紙、栞もおそろい。淡く補色にちかい色づかいが綺麗な本です。

まだ読みはじめたところだけれど、娘さんのこと、だんなさんのこと、そして強烈に個性的なおかんのこと、おとんのこと、日々の生活のことが丁寧であたたかなまなざしでとらえられている。彼女の文章を読んでいると日だまりでぬくぬくしているような気持ちになる。

出産の際に病院をかわったことは聞いていたけれど、こんな大変で、身を切るような思いをしていたとは…。大変だったことでもひょうひょうと話すから、つい安心してきいていた。ごめんよ…。

いつもわたしのほうが励まされてばっかりだったけれど、いっぱい大変だったんだ。

活字をつたって、もう一度、ともだちと出会い直すかな。

なかなか出てきません。

先日、内田樹さんのブログに、「こびとさんをたいせつに」というタイトルの文章があって、ちょっとおもしろかった。

私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。

そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。

「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。

暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。

それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。

「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。

けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。

「こびとさん」が餓死してしまったのである。

知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。

「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。

スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。

「自分にできること」はいつだってできる。

そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。

それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。

最初の大学のころは、卒業研究のCのプログラムをさくさく組んでくれるこびとさんがいた。二度目の大学では、課題の提出間際になって焦るわたしに、横からそぅっと手を貸してくれる少し大きなこびとさんがいた。それは、どちらも目に見えるこびとさんで、そのうえ、こびとさんがこびとさんを呼び、複数で作業にあたってくれたりして、とてもお世話になったことを今でもときおり思い出す。

自分で仕事をするようになると、そういう目に見えるこびとさんはもういなくて、自分のなかのこびとさんにお願いしなくてはならない。が、わたしのこびとさんは、相当引っ込み思案なのか、のんびりなのか、なかなか出てきません。最後になって出て来てくれるときもあるし、恐ろしいことに、出て来ないまま締め切りを迎えてしまうこともある。

わたしはまだ、こびとさんを確実に呼び出す術を知らない。
でも、追い込まれなければ絶対に出て来ない。
こびとさんが出てくるまでの作業は、無駄になるとわかっていても、
手を動かしはじめることなしには、こびとさんは出て来ない。

10日以上延々プレッシャーをかけて、
わたしのこびとさんは、今日になってやっと顔をのぞかせた。遅いよ…

ぎりぎりになって出てくるのはやめてほしいけど、どうしたらいいんだろう。

どうもありがとう。

シルバーウィークの帰省にあわせ、実家にて前倒しでお誕生日会。
その数日後、両親が京都に来た折りに、あらためてランチでお祝い。
その翌日、エッちゃんとオヨシから少し気の早いハガキが届く。

深夜、妹にはじまり、朝にはエッちゃんとクニちゃん、そして母からお祝いのメールが。
午後はイマムラさんに映画に連れ出してもらい、楽しい時間と素敵なプレゼントをいただく。
帰ったら、ポストにはサワイちゃん一家からの家族総出の寄せ書きハガキが。
そして、東京のケイコさんから届いたお菓子とカードは母屋の奥さんが預かってくれていた。

34度目の誕生日をこんなにもたくさん祝ってもらって、
これ以上いったい何を望もう。

居場所のない思いをすること、
ふと、いなくなってしまいたくなることが、決して少なくはなかったけれど、
たくさんのあたたかい想いが、この世界にしっかりわたしをゆわえつけてくれている。

どうも、どうもありがとう。

アルバム

純白のウエディングアルバム

昨日仕上がったアルバムに一晩重しをかけてプレスをしていました。
これでやっとアルバム完成。大きな瑕疵もなく仕上がったのでほっとしました。大きさは22cm正方くらい。

アルバム底面

表紙はBobbinRobbinでひと目惚れした薔薇の刺繍の入った白い布でくるんでいます。見返しは濃いグリーンのタント。扉にはペールグリーンのトレーシングペーパーをあしらっています。グリーンにこだわるのは、写真の撮影場所がLe Vent Vert(緑の家)だったから。前日にノムラテーラーで買った草っぽい紐も無事栞として採用されました。栞の主張が強いので、花ぎれは抑えめにして白色のものを。

アルバム上面

本文の厚みがあまりなかったので、表紙のボリュームと不釣り合いになるんじゃないかと少し不安だったけれど、サワイちゃんがうまく丸背にしてくれて、おさまりよくなりました。色が沈みすぎじゃないかと思っていた見返しの濃いグリーンも、白いボリュームの中にスッと差し色のように見えて◎

紙のT目、Y目もだいたい間違わずに判断できるようにもなっているし、細かい作法を忘れないうちに、もうひとつくらいつくらないと、教えてもらった技術が定着しないな、と思うので、目前に控えている仕事がひと段落したら、作品をまとめたものを製本することも考えておこう。(欲が出てきてる…)

スギモトさんの工房でのポイントレクチャーにはじまり、わたしのアルバムでも布の裏打ちからはじめて、丸二日、つきっきりで教えてくれたサワイちゃんに、深く感謝。どうもありがとう。

ぺルーめし

昨晩は来客があったので、久しぶりにぺルー料理をつくってみた。
ほんで、今日はその残りものがお昼ごはん。

セビッチェとアヒー デ ガジナ

手前の海鮮サラダのようなものが、セビッチェ(Cebiche)。奥がアヒー デ ガジナ(Ají de gallina)。セビッチェは白身魚をレモンでしめて、トマト、たまねぎなど生野菜と和えたもの。たまたま鯛が安かったので、今回は鯛でつくってみた。コリアンダーは嫌いなひともいるので、混ぜずにトッピング形式にしておく。

アヒー デ ガジナには、鶏のムネ肉をゆがいて割いたものが入っている。アヒー(とうがらし)が入っているので、もちろん辛い。カレーのようなとんがった辛さではなくて、くちあたりよくマイルドだけれどじわっとくる辛さ。来客ふたりは最後まで「カレー」と呼んでいた。

昨晩はこれにプラスじゃがいものビシソワーズ(ぺルー料理ではない)、という献立だったのだけれど、いちばんうまくできたのがビシソワーズというのが、なんとも複雑なところ。

ひとに食べてもらう、と思うと、料理って気合いが入るもんやね。

輪郭を確かめない

あなたの抱える痛みを厳密に特定するために、
たくさんの言葉を重ねるよりも、
いま自分の感じているところを信じて、
ただ受けとめようと思いました。

悲しみの輪郭を確かめるための所作がかえって、
当事者であるあなたと、わたしとの距離を際立たせる、
そのことがとても暴力的に思えたのです。