LISA SOMEDA

デザイン (7)

心をこめる

 

その日は、保育の仕事をしている友人と話をしていた。

休日に仕事を持ち帰ったという話をきいて、家に持ち帰らなければならないほど仕事量が多いのかと問うたところ、
新学期の帳面に子どもたちの名前を書くの、バタバタしている仕事中ではなくて、心をこめて書きたいから。という返事がかえってきた。

心をこめて名前を書く

という話が、おそろしく新鮮に聞こえるくらい、心をこめて何かをする、ということからわたしは遠ざかっていた。

彼女曰く、テキパキと合理的に仕事をするよりも、心をこめて名前を書くようなことのほうが、むしろ自分にできることなのではないか。と。

そのとき、わたしは虚をつかれた感じだったと思う。
わたしの仕事観のなかには、テキパキ合理的というチャンネルはあったけれど、ゆっくり心をこめて何かをするというチャンネルは、存在すらしていなかった。

少し話はそれるけれど、視覚表現に携わるなかで感じてきたことのひとつに、「ひとは、言語化されたり明示された内容よりも、その表現のもつニュアンスのほうに、大きく影響を受けるのではないか」というのがある。
たとえば、ひとが話をしていることばやその内容よりも、間の置きかたや声色、トーンといったもののほうから、より多くの影響を受けるようなこと。

そうであればなおさら、表現する立場のひとが「心をこめる」ことはとても重要だ。
受けとるひとは、心のこもっているものと、そうでないものを、とても敏感にかぎわける。

なのに、わたしはずっとそれをないがしろにしてきた。

心をこめる、ということをもう一度、考え直したい。

217

 

本町ガーデンシティに坂茂さんのレクチャーを聞きに行く。いくつか気になったことを書きとめておく。

  • 自分がこれと思う素材を見つけると、時代の風潮に流されない建築ができる。
  • 建築でたいせつなのはプロポーション、そして光と影。高い素材を使わなくても良いものはできる。(紙管の話)
  • 良い建築をつくりたければ、良い建築をたくさん見ること
  • 問題を設定して、どうデザインで解決できるかを考える
  • 素材を研究する
  • スケッチ、手で描く(海外の現場で言葉が通じなくても筆談でスケッチが描ければ通じる)

すごいなぁと思うのは、建築のディテールまでデザインする緻密で美的な作業と、コストから資材の再利用まで、さらには現地の雇用までを視野に入れたプランニングの両方ともができること。

何より、社会に対して(建築は、デザインは、写真は、自分は、)何ができるかという視点でものを考えるのを、ずいぶんさぼっていたなぁと気づかされるレクチャーやった。

秘スレバ花ナリ。

 

写真の画面の中ばかりに意識が向いているなぁ。内に閉じていく方向に向かっているなぁと思ったときに、ふと、以前見た重森三玲の庭の、庭が庭だけで閉じずにもっと大きな世界につながっている感じを思い出した。

そして、それら庭園がどういう意図や美意識のもとに組み立てられているのかということを知りたくなって『枯山水』を繙いた。(重森三玲著 中央公論新社 2008)

読んでみて気になったのは、幽玄、見立てる、空白の3つ。

幽玄

幽玄というのは、その表現の形式なり内容が、なんらかの形で、又は意味で隠されているものを指しているのであって、いわば本体の姿のままの形式や内容の、そのままの表現ではなく、全く異なった形や、内容として、別天地を創造した美の領域を指していることがことがわかるから(後略)(p70より抜粋)

この部分だけを抜き出してもわかりにくいと思う。ここで言っていることの具体例を枯山水に求めると、水に代わるものとしての表現材料として白砂を用い、また見る側も、砂を通して水を見いだそうとしていることが挙げられる。数個の石を立てて滝の表現とするのも然り。

砂を砂の美としてのみ創造もし、鑑賞もすることは、隠され、秘められている美がない訳であるから、これは幽玄ということはできないのである。

砂が水の表現材料として使われているからこそ幽玄であり、砂が砂としてのみ表現され、鑑賞されるのは、それは幽玄ではないのだそう。

このあたり、ものづくりをする際の素材と表現内容の関係を考えるヒントになりそう。

見立てる

庭園においては、園池の池水は池水と見つつ、同時に海景に見立てているのであり、枯山水における白砂は白砂と見つつしかも水と見立てるのである。

象徴というと、西洋絵画のヴァニタスのような、死の象徴としての頭蓋骨や、加齢や衰退などを意味する熟れた果物を思い浮かべるけれど、ここで言われている「見立て」とはまた全然意味が違う。

何が違うのだろうか?

死や、加齢などは、抽象性が高いのに対して、海景や滝、水は具体的である。庭園においては、象徴とする対象もまた具体的なものであるというのが大きな違いではないか。

ここでもうひとつ面白い記述を見つけた。池庭は、基本的には海景を表現しているのであり、そこに置かれる石は島の表現であるが、

池庭の中島などに要求されるものの中に、雲形とか、霞形とか、松皮様などのものがある。池中の中島は大体において、大海の島嶼を表現することが意図されているにもかかわらず、この中島に、雲の形とか、霞の形などといったものを形式上に意図すること、(後略)(p78より抜粋)

とある。で、雲の形や、霞の形のものをどうするかというと、

雲形の中島の場合では、雲が風に吹き流されているような形として表現し、霞形の中島の場合では、霞が二重にも、三重にも棚引いているがごとき姿に作ることが主張されているのであって、(後略)

単純に池水を海と見立て、石を島と見立てるのにあるあきたらず、さらに島と見立てた上に、雲や霞の表現を求めるというのだ。中島を、石と見て、島と見て、雲(あるいは霞)と見る。すごい。

ここで、わざわざ雲が風に吹き流されているような形、霞が二重にも、三重にも棚引いているがごとき姿と書かれていることに気がつく。単に雲のかたち、あるいは霞のかたち、ではなく、雲(あるいは風)の動きや霞の動きを忠実に表現することに重点が置かれている。そう考えると、白砂が表現する波や水紋も、石を複数組み合わせて表現する滝も、水の動きを表現している。

石や砂といった基本的には動かないモノを材料とし、その形状によって、水や雲や霞といったまったく別のものを、その動きまでを含めて表現する。

ものすごく射程の広い話ではないか。

中島を、石と見て、島と見て、雲(あるいは霞)と見るように、同時にAと見て、Bと見て、Cと見るような構造を写真に持たせることは可能なのだろうか。

ただの道具ではない。

 

ようやくDICのカラーガイドを入手する。

いや、お金を払えば誰でも簡単に買えるものだし、入手しようと思えばいつでもできた。
仕事の内容的に、そろそろ入手してもいいのではないか、と、
ようやく思えたというほうが正確かもしれない。

思えば12年前からずっと欲しかったのだ。
もっと言えば、ポスターのデザインがしたいというのが12年前の夢で、わたしにとって、色指定のためにひっつけるカラーチップは、その仕事を象徴するとても素敵でキラキラしたものだった。だから、DICのカラーガイドは、わたしにとって、ただの道具ではない。デザインに携わるという夢そのものなんだと思う。とても遠いところからデザインの世界に憧れていたあの頃のキラキラした気持ちが、この小さいチップにぎゅぅっと詰まっている。

近づいてみたら、その世界は決してキラキラしているだけではなかったし、むしろ実際は泥臭くて地味な作業の積み重ねなのだけれど、それでも憧れてるだけではわからなかったものづくりの醍醐味に触れられて、結果オーライ。憧れと現実は違ったけれど、それでもやっぱり好きでいられたし、こっちの世界に来て良かったと思う。

ずっしり重いカラーガイドをめくりながら、
あの頃見上げていた山の、裾野くらいには辿り着いたのかなぁ…なんて。

さて、このカラーガイド。
最初は「こんなにたくさん!」と感激したのだけれど、
いざ、作業に入ると欲しい色にばっちり同じ発色のインクなんて見つからない。
欲しいのは、このチップとこのチップの間くらいの色…というように、のっけから難儀する。

写真でも色でいちばん苦労するけれど、ほんとうに色って難しい。

特色どうしを重ねたらどんな色になるのか、とか、
いろいろ知りたいこと、見てみたいことがたくさん。
そこらへん、まずは実験かなぁ。

やってみんとわからんことだらけやけど、だからこそ、
ものをつくるのは楽しいんやと思う。

台風のそなえ

 

台風が来るから、と、母屋の奥さんが声をかけてくださる。
台風対策なんてしたことがなかったら、
「なにしたら良いんでしょうかね?」と尋ねたら、
母屋は網戸をはずして、2階のベランダの植木鉢は部屋に入れた、とのこと。

そっか。

早速、部屋にブルーシートをひき、ベランダの鉢植えを部屋に運ぶ。

「寂しいとグリーンって増えるんだよね。」
と、何気なく言ったことがあるけれど、知らないあいだに鉢は15個に増えていた。
どうりでベランダが手狭なわけだ。
全部運び入れたら、部屋の一角がさながらジャングルのよう。
網戸をはずして、風で飛びそうなものは、ひととおり部屋の中に入れてしまう。

話しが終るころ、部屋中に散乱しているインクの染みのついた紙を見て、
母屋の奥さんが怪訝な顔。

「それなに?」

「あ、デザインに使おうと思って…。」

インクのしずく跡のイメージが必要で、ソフトをこねくりまわすよりも、実際のインクでつくったほうがリアルだろう、と思って、プリンタの替えインクを、紙にポツリポツリやっていたら、「バランスの良いしずく跡がほしいなぁ」が「もっと威勢の良いのが欲しい!」と、だんだん盛り上がって、ついには椅子に乗って高所から滴下。そうやって、インクを滴下しまくった紙を乾かしていたところに、母屋の奥さんはやってきた。そりゃ気持ち悪かったろうと思う。

なんでもかんでもPCで済ませようとすると、こじんまりしたものができあがってしまう、というのが最近の反省点。でも手でモノをいじると、必要以上に盛り上がってしまう。

烏丸通り1ブロック分のこと。

 

晴れてはいたものの、かなり霞んでいたから、撮影は早い段階で断念し、もう一度見ておこうと思った、入江マキさんの個展に向かう。グリーンから青を通り越して紫までの色が印象に残る。

見たそばからはかなく消えゆく夢をたぐりよせるようなこと。
つじつまをあわせたり、輪郭を確定したとたんに崩壊するような世界を、そのまますくうようなこと。

そのあと、芸術センターで開催されているdual pointで、はじめてまともに高木正勝さんの映像を見て、しばらく動けなくなった。何ループくらい見ていただろう。映像でしかつくれない質感。

それから、cococn karasumaで開催されているNY TDC展まで足を運んでみたものの、作品の良し悪しより、展示物の状態の悪さが、気にかかった。

烏丸通り1ブロック分のこと。

Letters are symbols which turn matter into spirit.

 

気をつけたいことは、知らず知らずのうちの、不遜、そして、傲慢。デザイナーの義妹と話していて、彼女のデザインに対する真摯な態度に、自分が恥ずかしくなった。あるいは、デザインに対して真剣に向き合っていないことに、自分の傲慢さを感じた。究極的には、デザイナーではありえないのだけれど、そこに携わる以上は、謙虚に研鑽を積まなければ失礼だ。

せめて、知識と研鑽の積み重ねで、良質のデザインを世に出すことができるようになるのかもしれない、と思って、まっさらな気持ちでデザインの勉強をやり直すことにした。少しずつでも、本質的なところに向かえるように。

いま携わっている仕事はちょうど貿易関係の販促物なので、どうしたら欧文をうつくしく組めるのだろう?という素朴な疑問から出発する。

海外の空港の案内板でみる欧文はとてもうつくしいのに、国内でうつくしい欧文を見ることは少ないし、自分でもなかなか、気持ちよくデザインできたと実感できることが少ない。

ということで手にとった、小林章さんという書体デザイナーの方の著書がすぐれて良い。

欧文書体―その背景と使い方 (新デザインガイド)
(小林章著 株式会社美術出版社 2005)

海外で見かける和文の組版が「どこかヘン」と感じるように、きっと日本人の組む欧文の組版も、海外のひとには「なんだかヘン」に映るのかもしれない、という危機感があったのだけれど、
まったく同じことを、最初の章に書かれているのが可笑しかった。

そして、例文がまたうつくしい。

Letters are symbols which turn matter into spirit.
文字は単なる物事を精神にまで高める