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17世紀のパラダイムシフト

 

ついこのあいだ、不可視性について考えたことをまとめたあと、とてもおもしろい本に出会った。

フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命

フェルメールとレーウェンフックの二人の生涯を軸に、望遠鏡と顕微鏡の発明によってもたらされたパラダイムシフト、当時の人々の世界認識がドラスティックに変わるさまが丹念に描かれている。

これまで遠すぎて見えなかったもの、小さすぎて見えなかったものが望遠鏡と顕微鏡の発明によって見えるようになったときにはじめて、人々は「自分たちの肉眼では見えない世界がある」ことを知り、受け容れなければならなかった。

わたしたちは何の疑問も抱かず、新型コロナウイルスは(肉眼では見えないけれど)存在すると思っているけれど、それは決してあたりまえの認識ではなく、この17世紀のパラダイムシフトを通じて獲得したものである。

望遠鏡が見せてくれるはるか彼方の天界、顕微鏡が見せてくれる微小な生物、それ自体とても大きな発見ではあるが、何より大きい発見は「肉眼では見えない不可視の世界がある」とわかったことだという。

 顕微鏡と望遠鏡が幅広く受け入れられるために必要だったのは、その作用原理を説明する光学理論だけではなかった。むしろ、世界は見かけどおりではなく、我々の眼には見えない隠された部分があるということを積極的に受け容れる姿勢のほうが重要だった。肉眼で観測するさまざまな現象の背後には不可視の世界があり、人間の眼に見えない部分にこそ目に目に見える自然現象の原因があることを理解しなければならなかった。この時代は〝世界は見かけ通りのものではない〟という認識が急速な勢いで広まった時期と見ることができる。

フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命』(ローラ・J・スナイダー著 黒木章人訳 原書房 2019 p24より抜粋)

この「不可視の世界がある」という17世紀の発見がなければ、見えないものがあるという構造を前提とする無意識は発見されなかったかもしれない。21世紀のいま、わたしたちは実際に道具で観察できるケースだけでなく、無意識のように道具で観察できないケースであっても、「不可視の世界がある」ことを受け容れている。そこがとても興味深い。

5月の空

 

空気が乾いた季節の夕暮れどき、ほんのり紅を点したような空が好きだなぁと思って撮り始めたのが4月の中頃。それからしばらく経って、ほぼ定点で撮れるかもしれないと思い、夕暮れどきにベランダの決まった位置に立ち、空にスマホをかざすようになりました(これは今も続けている)。

緊急事態宣言中に見上げた空(ほぼ定点)

「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは…」のくだりを思い出し、何度か早朝にも撮ってはみたものの、び、微妙……清少納言先生の推しはきっと東の空。これは西の空でした。

緊急事態宣言のなか、生活を変えることを余儀なくされたけれど、そんな中にあっても、あたたかくなれば蕾をふくらませる花々に、朝な夕な美しいグラデーションに染まる空に、わたしは少なからず救われた気もちになっていました。ふだんと何らかわらないペースを保つものに、心強さを感じていたのかもしれません。

平時に戻るまでのそれぞれのままならない日常に、少しでも寄り添えますように。

隔たり

 

平時モードに戻る前に、もうひとつ書き残しておこうと思う。

「隔たり」ということばは、ふつう二者の空間的・時間的な距離を指す。それだけでなく、たとえ二者の距離が限りなく近くても、ガラスや壁のような遮蔽物が間にあるような場面でも「隔たり」ということばを使う。これらはまったく異なる状況のはずなのに同じことばを使う。そのことに興味を持った。

この二つの状況に共通点を見出すとすれば、距離や遮蔽物によって二者の接触が阻まれているということではないか?「隔たり」ということばのベースには「触れることができない」(接触不可能性)というチクッと心が痛む経験が横たわっているのではないだろうか?

かつて、そんなことを考えたことがある。(隔たり 2014.04.26)

奇しくも、新型コロナウイルスの感染防止対策として、日常生活ではソーシャルディスタンスを保つよう促され、公共施設や商店の窓口には薄い透明のシートが貼られるようになった。ぼんやり考えていたことが、突然、可視化されてしまった。

不可視性

 

近年、見えなさに関心を持っていて、つい「不可視性」ということばを使ってしまうこともあるが、けっこう意味の幅が広いことばなので、少し整理してみたいと思っていた。

ちょうどいい機会なので、「見えない/見えにくい」とはどういう状況かを、いちど整理してみようと思う。現時点で思いついたことを書き出しただけなので、あらためて分類し直したり、更新するかもしれない。「自分の近くにあるかどうかがわかる/わからない」という項目には、新型コロナの影響がモロに出ているが、現在の関心は少なからずそこにある。

  • 肉眼で視認できない

    • 知覚する方法がない
      そもそも、その対象を思いうかべることすらできない→考察できない
    • 知覚する方法がある

      • 道具を用いて
        自分の近くにあるかどうかがわからないケース
        ウイルス、細菌等、放射能、電波、電気等
      • 視覚以外の感覚で
        自分の近くにあるかどうかがわからないケース
        ホワイトアウト、ブラックアウトなど、手探りの状態
        自分の近くにあるかどうかがわかるケース
        花粉、湿度
      • 現象を通じて
        現象と対象の関係を知っている
        運動、熱、光→電気
        風→空気
  • 不完全だが肉眼で視認できる

    • 対象を特定できない
      暗すぎる、明るすぎる、速すぎる状況など
    • 対象を特定できるが正確に認識できない
      反射と透過の像が混在、半透明のフィルターを介する状況など

新型コロナウイルスの感染拡大を機に、なぜ、見えないことがそんなに不安をもたらすのかを考えていたけれど、こうやって例を挙げてみると、日常生活の中に「見えないもの」はけっこう沢山ある。にもかかわらず、空気や電気に対して不安にはならない。不安と結びつくのは「自分に危害をもたらしうるもの」と「見えない」が組み合わさったときだ。

そして、ひとが「見えない」というとき、その前段には、その対象が存在することを知っている。まったく意識にものぼらないものに対して「見えない」という自覚は芽生えない。肉眼で見る以外の方法で知覚されうるものや、伝え聞いて存在を知っているものにしか「見えない」という経験は成り立たない。それがわかったのは大きな収穫かもしれない。

  1. 「見えないけれどある」ことを知っている
  2. (吹雪や霧など、状況のせいで)本来見えるべきものが見えない

これらのように、「見えない」ことを自覚するためには、前提となる条件がある。

いちばん厄介なのは、見えているつもり。見えないことに気づかないこと。「見えない」が見えないことかもしれない。

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