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満足であるというのは過激なこと

先日、@CKUAで観たジェン・ボー(鄭波)の展覧会で、参考書籍として紹介されていた本の中に、好きな装丁のものがあり、後日、あらためて探し求めた。

植物と叡智の守り人

ネイティブアメリカンの植物学者が描くうつくしい世界観に触れ、しばらくこちらの世界に戻ってきたくなくなってしまった。それも、ただうつくしいのではなく、現代社会に対する鋭い洞察がいたるところにちりばめられている。心に刺さったところをいくつか書き留めておこうと思う。まずは、経済について。

ネイティブアメリカンの社会では、感謝、とりわけ地球や大地に対する感謝が重視されるが、資本主義社会でドライブのかかった欲望に歯止めをかける力を、著者はこの感謝という行為に見出している。

以下の記述は、著者が夢で見た光景ではあるが、心理描写が興味深い。

つい先日、その市が、鮮やかな質感とともに私の夢に出てきた。私はいつものように腕に籠を抱えて売店を縫って歩き、エディータの店に採りたてのコリアンダーを買いに行く。楽しくおしゃべりをした後、お金を払おうとするとエディータは、要らない、と手を振り、軽く私の腕を叩いて立ち去らせようとする。贈り物よ、と彼女が言う。どうもありがとう、と私は答える。お気に入りのパン屋では、丸いパンの上に清潔な布をかけてある。私はパンをいくつか選んで財布を開けるが、ここの店主もまた、まるでお金を払おうとするのが失礼なことでもあるかのように、要らない、と身ぶりで示す。私は困惑して周りを見回すーー見慣れた市場のはずなのに、様子がガラリと変わっている。私だけではなく、誰もお金を払っていないのだ。私はすっかり嬉しくなって、市場を足取り軽く歩き回る。ここで使える通貨は感謝だけなのだ。すべては贈り物なのである。まるで野原でイチゴを摘んでいるみたいだーー行商人たちは、地球からの贈り物を次の人に手渡す仲介者にすぎないのである。

わたしは自分の籠の中身を眺める。ズッキーニが二本、玉ねぎ一個、トマト、パン、それにコリアンダー。籠はまだ半分空だが、一杯になったみたいに感じる。必要なものは全部揃っている。私はチーズを売っている店に目をやり、買おうかな、と考えるが、買うのではなくてもらうことになることを考え、やっぱりやめることにする。おかしなものだーー市場にあるものが全部、単にとても安いだけだったら、ふだん私はできるだけたくさんのものを買っただろう。でも全部が贈り物となったら、自制心が働いたのだ。必要以上のものは受け取りたくない。そして、明日私は何をお礼に持ってこようかと考え始めた。

もちろん、その夢は消えてしまったが、とても嬉しかった気持ちと自制心は消えなかった。それ以来何度もそのことを考え、私はそのとき、市場経済から贈与経済へ、私有財産から共有財産への転換を目の当たりにしたのだということが今ではわかる。そしてその転換によって私たちの関係は、手に入れた食べ物と同じくらい滋養たっぷりなものになった。(後略)

(『植物と叡智の守り人』 ロビン・ウォール・キマラー著 三木直子訳 築地書館 2018 pp.47-48から抜粋)

市場にあるものが全部、単にとても安いだけだったら、ふだん私はできるだけたくさんのものを買っただろう。でも全部が贈り物となったら、自制心が働いたのだ。必要以上のものは受け取りたくない。

贈与経済では、過剰な欲望は抑止される。これは、大事なポイントではないだろうか。

さらに、「感謝のことば」あるいは「すべてのものに先立つ言葉」として古くからネイティブアメリカンに伝わる慣習を紹介する章では、以下のように記されている。

感謝のことばを聞いていると、否応なく豊かな気持ちになる。それに、感謝の気持ちを表現するというのは素朴な行為に見えるかもしれないが、それは実は革命的な考え方だ。消費社会においては、満足であるというのは過激なことなのだ。自分に不足しているもののことではなく、自分がいかに豊かであるかを認識するのは、満たされない欲求を作り出すことによって繁栄する経済を弱体化させる。感謝の念は充足感を育てるが、経済の繁栄には欠乏感が必要なのだ。感謝のことばは、あなたはすでに必要なものすべてを持っているということを思い出させる。感謝の念があれば、満足感を得るために買い物に行こうとは思わない。満足感というのは買えるものではなく、贈り物であって、それは経済全体を根幹から揺るがす。地球にとっても人にとっても、それは良い薬になる。

(同書pp.146-147から抜粋)

感謝の念は充足感を育てるが、経済の繁栄には欠乏感が必要なのだ。

持続可能な社会に向けて、まっさきに取り組むべきは、感謝の気持ちを表現する、ということなのかもしれない。

選択の根拠

どうしてそれを選ぶのか、自分でその根拠がわからないまま選択を行なっていることは多いという自覚はずっとあった。特にものをつくる場面で。

いちばん身近なものでは、なぜそれを、そのようなかたちで写真に収めるのか?という問い。それはいつも自分につきまとっている。

最近読んだ、『あなたの脳のはなし』には、はっきりとこう書かかれている。

わたしたちはふつう自分の選択の根拠をわかっていない

私たちはふつう自分の選択の根拠をわかっていない。脳はつねに情報を周囲から引き出し、それを使って私たちの行動を導くのだが、気づかないうちに周囲の影響を受けていることが多い。「プライミング」と呼ばれる効果を例に取ろう。これはひとつのことが別のことの知覚に影響するものである。たとえば、温かい飲み物を持っている場合は家族との関係を好意的に表現し、冷たい飲み物を持っているときは、その関係についてやや好ましくない意見を述べる。なぜこんなことが起こるのか?心のなかの温かさを判断する脳のメカニズムが、物理的な温かさを判断するメカニズムと重なり合っているので、一方が他方に影響する。要するに、母親との関係ほど根本的なものについての意見が、温かいお茶を飲むか、それとも冷たいお茶を飲むかに、操られる可能性があるということだ。

(『あなたの脳のはなし』 デイヴィッド・イーグルマン著 大田直子訳 早川書房 2017 pp.111-112から抜粋)

ほかに、硬い椅子に座っているときのほうが、柔らかい椅子に座っているときよりもビジネスにおいて強硬な姿勢を示す、といった例も挙げられている。

 もうひとつの例として、自覚されない「潜在的自己中心性」の影響を考えよう。これは、自分を思い起こさせるものに引きつけられる特性のことだ。社会心理学者のブレット・ペラムのチームは、歯学部と法学部の卒業生の記録を分析して、デニースやデニスという名前の歯科医(デンティスト)、そしてローラやローレンスという名前の弁護士(ロイヤー)が、統計的に多すぎることを発見している。

(同書 p112より抜粋)

さらにたたみかけるようにこう続く。

心理学者のジョン・ジョーンズのチームは、ジョージア州とフロリダ州の婚姻記録を調べ、実際に名前のイニシャルが同じ夫婦が予想より多いことを発見した。つまり、ジェニーはジョエルと結婚し、アレックスはエイミーと結婚し、ドニーはデイジーと結婚する可能性が高い。この種の無意識の影響は小さいが数値的な裏付けのあるものだ。

 要点はこうだ。もしあなたがデニスやローラやジェニーに、なぜその職業やその配偶者を選んだのかと訊いたら、彼らは意識にある説明を話すだろう。しかしその説明には、最も重要な人生の選択に対して無意識がおよぼす力は含まれていない。

(同書 pp.112-113より抜粋)

これほどまでに、無自覚に環境の影響を受けているのだとしたら、時間をかけて見つけた合理的に思える根拠も、疑わざるを得ない。

想像以上に「わかっていない」ことがわかって、少し恐ろしくなった。

音楽的に

先日訪れた展覧会で、展示構成がプログラミングのように構築されている印象を受けたのをきっかけに、ひとはどんなモデルで展示構成を考えるのだろうということに興味を持つようになった。

わたしの場合は、音楽的にとらえる傾向があるように思う。

2015年に札幌でペア作品を展示した際、それを表現するのに「主題と変奏」というフレーズが頭に浮かんだ。A/Bのような比較としてとらえられるペア作品ではあったが、2点を同時に視野に入れることはできないので、時間の流れを含んだ「主題と変奏」という表現はしっくりきた。同時に、そういう音楽的な表現がふと思い浮かんだことに、自分でも驚いた。

そう考えると、写真が横に並んでいく作品の構造はそのまま、矩形のユニットが横に並ぶ楽譜をなぞらえているようにも思え、幼少からのピアノレッスンをはじめとする20年余の音楽の経験は、意外なかたちで自分の中に深く根を下ろしているのかもしれないと思うようになった。

展示に限らず、何か構成を考える際に、主旋律、副旋律、転調、インヴェンションの1声、2声、3声の複雑な交錯といった音楽的な構造を、むしろ意図的に援用するのは面白いかもしれない、と思う。

視線、羞恥、欲望

松本卓也さんの『享楽社会論: 現代ラカン派の展開』(人文書院 2018)の第6章2節 視線と羞恥の構造に、とてもおもしろい記述を見つけた。

“視線が恥(羞恥)を生み出すメカニズムは、一体どのようなものだろうか。視線は、どのように恥ずかしさを生み出すのだろうか。”という書き出しではじまるこの節は、まなざしについての示唆に富んでいる。

なかでも、水着の女性のグラビアを見るときに感じない恥ずかしさを、実際に水着の女性が目の前にいると「目のやり場に困る」と恥ずかしさを感じるのはなぜかという問いから導かれる以下の論考がおもしろい。

水着の女性を「見る」ことそれ自体が恥ずかしいのではない。また、見ることによってその女性を「知る」ことが恥ずかしいのでもない。むしろ、その女性を見る際に、自分のことが知られてしまうのが恥ずかしいのである。女性の身体のどこを見るかによって私たちの欲望が知られてしまうこと。つまり、自分の視線が水着の女性を見ることによって、自分の欲望を知られてしまうことが恥ずかしいのである。それゆえ、「見ること=知ること」という等式を恥ずかしさのメカニズムとして考えるならば、その場合「知る」という行為の目的語は相手ではなくて私たち自身である。(「私が他者を知る」のではなく、「私が他者によって知られる」)という主客の逆転があることによく注意しておかなければならない。

(同書 pp.182-183から抜粋 *太字は本文の傍点箇所です)

その先には、カメラマンについての言及も続く。

(前略)さきに、水着の女性のグラビアを見ることは、見ている側に恥ずかしさを生じさせない、と述べた。窃視症は、これとよく似ている。というのは、窃視症者自身は壁を一枚隔てたところに隠れており、自分のことが相手に知られることがないからである。これは、写真の基本的な構造ともよく似ている。カメラマンは、カメラを用いて「壁」をつくり、被写体を含む外界から隔離されることができるからである。それゆえ、窃視症者やカメラマンには恥ずかしさは生じないのである。

(同書 pp.188から抜粋)

さらに、もう少しだけ抜きだすと、

(前略)カメラマンは、自分と被写体とのあいだにカメラという「壁」を挟むことによって、安全な位置を確保している。グラビアの水着女性が私たちを非難してこないのと同じように、カメラマンも、カメラという「壁」の向こうから攻撃されることはない。覗き魔が隠れる「壁」と同じように、カメラがきわめて安全な位置を提供してくれるのである。(後略)

(同書 pp.188から抜粋)

窃視症との関連でカメラが引き合いに出されたことに少し戸惑いを覚えたが、よくよく考えてみると、撮影対象の中にひとが入っている場面では、たしかに「覗いている」ような気もちになることがある。作品制作においては、あいだに川を挟んでいることもあって、被写体(に含まれている人物)からコミュニケーションをとられる可能性はないし、そもそも被写体に撮られていると悟られることも少ないが、それでも一方的にカメラを向けていることに対する疚しさはぬぐえない。とりわけ、二作目からはひとの営みが画面に写り込むことを意識しているので、なおのこと、疚しくないとは言い難い。

もう少し、写真に引き寄せて考えると、カメラという「壁」によって被写体に対しては隠される撮影者の欲望(見たい、見せたい)は、撮られた写真によって(どういう構図でどこにピントをあわせているかで)事後的に露呈する。しかし、中心的な対象をもたないフラットな画面構成であれば、撮影者の欲望はどこまでも隠し続けられる。

ここでわたしに突きつけられたのは、そういうフラットな画面構成を採用するその背景に、自分の欲望を知られたくないという強い恥の意識、あるいは自分の欲望を知られることに対する強い恐れがあるのではないか?という問いである。

ときどき、私を越える。

それまでワンショットでおさめていたものに、何度もシャッターを切っている。
迷いを変化の兆しととらえれば、決して悪いことではないのだけれど、どこか心許なさもつきまとう。気がつくと、ジョージア・オキーフと篠田桃紅の本を手にしていた。

あるときは、思いもかけないぐらい、墨は美しい表情を出すんです。自分でも、こんなにうっとりする線が引けるとは思わなかった、っていうものを授けるんです。ときどき、私を越える。こんなに美しいものを描ける力があったんだって、自分で自分にびっくりする。惚れ直すことができるんです。墨には、それくらい幅があるんですよ。

(『百歳の力 (集英社新書)』 篠田桃紅著 集英社新書 2014 p146より抜粋)

ときどき、私を越える。

何十年も墨の線を引き続けた作家が、それでもなお、自分を越える美しい線に出会い、驚く。
その事実に、こころが震えた。

書くこと

「書くこと」について、友人と話をした。

友人は、わたしがどこに着地するかわからないままでも書き始められることに、すこし興味を持っている様子だった。彼女は、どういうことを書くか決めてからでないと書けないと言う。

書いているうちに思いもよらない方向に展開したり、思いもよらないものに接続することが、即興演奏のようでおもしろいと感じていたが、書く人がみなそういう風に書くわけではない、ということを、わたしはその時はじめて知った。

書くことや、ものづくりで一番おもしろいのは、手を動かしているうちに、まったく想像もしなかったものが生まれる(というより「出会う」)ことだと思っている。とりかかった時点で、何ができあがるか、自分にはわかっていない。むしろ、わからないからこそ、自分の手が生み出す、まだ見ぬ何かを見たいと願う。そして、それが書いたり作ったりする強い動機になっている。

下條信輔さんの、『サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代 (ちくま新書)』に、前意識についての記述を見つけた。「知っている」と知っている範囲(意識 conscious representation)の外側に同心円状に、知らずに「知っている」範囲(前意識 sub-conscious representation)が広がっている図を見て、なるほどなぁと思った。

書いたり、手を動かすことが、前意識と呼ばれる部分に働きかけをしているのかもしれない。

ここで特に私たちが考える前意識の知は、意識の知と無意識の知の境界領域、またはインターフェースにあたります。人が集中して考えたり、あるいはぼんやりと意識せずに考えるともなく考えているときに、突然天啓が閃く。スポーツによる身体的刺激や、音楽による情動の高揚、他人がまったく別の文脈で言った何気ない一言などが、しばしばきっかけになるようです。

こういう場合には、新たな知は外から直接与えられたわけではなく、といって内側にあらかじめ存在していたとも言えません。その両者の間でスパークし「組織化」されたのです。

この意味で前意識の知は、意識と無意識のインターフェースであると同時に、自己の心と物理環境、あるいは社会環境(他者)とのインターフェースでもあります。前意識を通してさまざまな情報や刺激が行き来するのです。(後略)

(『サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代 (ちくま新書)』 下條信輔著 筑摩書房 2008 pp.258-259から抜粋)

音の遠近

久しぶりにクラシックのコンサートを聴きに行った。

ごくあたりまえのことだけれど、さまざまな質の音があちこちから響いてくることや、コントラバスの低い弦の音のゆたかさ、弦をはじく寸前の微かに擦れる音、指揮者ののびやかな身ぶりに自分の身体もどこか同調しているようなこと、いろいろ発見があっておもしろかった。

なかでも、ヨハンシュトラウスの「ばらの騎士」でバイオリンが近くの音、遠くの音を奏で分けている箇所。音だけで空間の奥行きがグンと広がったことに鳥肌が立った。音の強弱だけでなく、明瞭さや肌理といった音の質も奏で分けられていたように思う。実際の劇場の空間よりも、広さや奥行きを感じられたのが不思議だった。

音楽の道に進もうと思っていた10代の頃、ひたすら譜面を追っていた時期には、気づかなかったことばかりだ。離れたからこそ、気づくことがあるのかもしれない。

オリジナルとコピー

増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い (岩波現代文庫)』にあった遷宮の話が、ずっとひっかかっていた。世界遺産への登録が検討された際、遷宮によって建て替えられた“新しい建物”をどうとらえるかが議論になったという。

コピーがオリジナルにとってかわるという存在のしかたが取りざたされたようだけれど、わたしたち自身、その細胞は日々新しいものに入れ替わっている。むしろ遷宮のシステムは、生物の在りように近いのではないか、とも思う。「存在のしかた」は、ひとつではないのだ。もっと世界に視野を広げれば、もっと多様な「存在のしかた」が見つかることだろう。

それと同時に、あたりまえに交わされる「オリジナルとコピー」という議論が、実に西欧的(西欧ローカル)な問いであることにも気づかされた。

最近、芸術の枠に組み込まれていない視覚表現に関心を持つようになった。そういったところから、芸術における議論を相対化する視点が得られるのではないか、と期待している面もある。そう考えるようになったきっかけは、この遷宮の話だ。

以下、『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い (岩波現代文庫)』 高階秀爾著 岩波現代文庫 2009より抜粋。

 ところが、伊勢神宮においては、コピーが本物にとって代わるーというか、コピーこそが本物であるーという、西欧の論理ではあり得ないはずのことが、現実に行われている。神殿が二十年ごとに建て直されるというのは、もともとは建物が古くなって損傷が激しくなったから新しいものに代えるという理由から始められたものであろうが、それは、本物がいたんできたからコピーで間に合わせるというものではない。新しく出来上がった瞬間に、それは「本物」となるのである。(p31より)

 問題は、もちろん伊勢神宮だけにあるのではない。日本古代のこの神殿が、西欧の論理を戸惑わせるようなやり方で今日まで生き続けているということは、とりも直さず、それが日本人の心性、価値観、ものの味方と、深いところでつながっているからであろう。

 差し当たりまずはっきりしていることは、日本人は西欧人ほどものそのものに価値を置いていないということである。あるいは、ものそのもののなかに本質はないと考えている。と言ってもよいかもしれない。伊勢神宮で大事なのは、建物そのものではない。いや建物はむろん大事ではあるが、その大事だということが、建物の材料であるものとは、必ずしもそのまま結びついていない。現実には二十世紀に建てられたものであっても、あるいは途中で何回も壊され、建て直されたものであっても、現在の伊勢神宮は、われわれにとって、やはり千数百年前とまったく同じ価値を持っている。(p32より)

 この「形見」という言葉は、もともと「かた」(型、形)に由来するものであろうが、とすれば、そのこと自体、きわめて意味深い。事実、西欧に「ものの思想」というものがあるとすれば、日本には「かたの思想」とでも呼ぶべきものがあって、ものそのものよりもかたないしは形の方を重要視する傾向が強いからである。伊勢神宮が六十回も建て直され、そのたびにものとしてはまったく新しい別の存在になりながら、一貫して同じ価値を保ち続けた理由は、それが同じ「かたち」を受け継いでいるからなのである。

 日本人のこのような価値観は、宗教の世界を離れて日常の世界においても、その現われを見出すことができる。さしずめ、歌舞伎の名跡などというものはその代表例であろう。

 かつては、梨園においてのみならず、武家でも商家でも似たようなことが行われていたが、団十郎とか歌右衛門という名前は、それを名乗る人が何回入れ代わっても、一貫してある一定の価値を示している。ちょうど伊勢神宮が、何回建て直されてもつねに伊勢神宮であるのと同じである。(p38より)

備忘録

いくらでも考えるべきことはあるのだけれど…
造形や表現を生み出すときの、プリミティブな衝動や、感覚を忘れないように。

頭だけで考えることも危険。ほんとうに「腑」に落ちているか。身体に訊いてみる。
一見、理屈が通っているように思えることも、実感がともなわなかったり、違和を感じるときは立ち止まろう。

写真は、被写体の意味や物語に安易に回収されてしまうから気をつけること。あくまでも「画面で何が起こっているか」「画面との間に何が立ち上がりうるか」に留まり続けること。

朝顔考

祖父が遺した朝顔の種を播いたのは一昨年のこと。
その花が種を落としていたのか、今年は播いたつもりのない鉢から二株の朝顔が芽を出した。

せっかくだからと鉢をわけて育ててみたら、片方は葉っぱも花も強く縮れた畸形だった。
しばらくのあいだ、畸形の株をかばうような心もちで水をやっていたのだけれど、ある朝、堂々と花を咲かせているのを見て、これがこの花の個性なんだと気がついた。

その発見はなんとも嬉しく、清々しさと開放感に溢れていた。ほんの少し自分の心がふくよかになった気もした。

つまりは、息苦しかったのだ。
正常や標準といった狭い範囲をくくり、そこから外れたものを排除したり、標準に近づけようとする社会の圧は日増しに強くなっている。その圧が恒常的であるがゆえに、気づきづらく、さらには、知らずしらず内面化してしまっていたのだろう。ずいぶん、無頓着になっていたものだ。

朝顔の花から学んだものは、大きい。


一昨年は、朝顔のつるを巻いて他者に寄りかかるありさまに、嫌悪感を隠せなかった。
できることなら、向日葵のように己の力ですっくと立っていたい、と思ったものだ。

でも今夏の台風で、強い風にあおられるなか、朝顔だけがまったく動じない様を見て、
他者の支えを前提として生きるしなやかな強さを朝顔に見出した。

平時だけを考えれば、向日葵の生き方でもいいのかもしれない。
けれど、有事を想定すれば、朝顔の生き方にも一理ある。

朝顔ひとつとっても、見える景色が変わることもあるのだと知った。

妄想

昨夕、水餃子を湯がくのに、ふと思いついて「OK google! 4分測って!」とお願いしたら、ちゃんとスマホのタイマーが起動して4分が計測された。調理中のような、両手が塞がっている場面では、音声でコントロールできるのは、ものすごくありがたい。長時間露光の撮影でも、使えるんじゃないかと思う。

先日、1年ぶりに訪れた漢方医で。
それまでは、話を聞きながら先生が問診内容をタイピングしていたのが、その日は、先生がこちらを向いて話を聞いているだけで、わたしの回答が画面の電子レシピにリアルタイムで書き加えられていくのに驚いた。よく見ると、奥に助手が座ってタイピングをしていたのだけれど。

先生がきちんと自分のほうに身体を向けているだけでも、ずいぶん印象が違う。それまでは、発話のタイミングを先生のタイピングのペースにあわせていたのが、普通に会話ができるようにもなった。
問診がスムーズになった分、診察時間は短縮されたが、「ながら聞き」ではなくなったので、コミュニケーションの質は高くなったと感じられた。(生産性の向上やなぁ)

医師は、医師にしかできないことをするべきで、タイピングをする必要はないという当たり前のことに気づかされたのと同時に、いずれこの部分は音声入力に取ってかわられるだろう、と思った。
最近の音声認識は、思っているよりずっと精度が高く、わたし自身、スマホの入力はほとんど音声に頼っている。

さて、こんなことを書いたのは、WEBが今後どうなっていくのかを考える機会があったから。
音声認識とアシスタントの能力がどんどん高くなれば、視覚ベースが音声ベースのコミュニケーションにとってかわられる場面も増えていくだろう。WEBはアシスタントにリーダブルな構造に変化していくだろうと予想している。

そういうことを考えていたせいか、膨大な撮影データから「あなたにオススメの被写体」をカメラにおすすめされたり、過去に設定された露出の解析をもとに、被写体に応じて「わたし好み」の画が得られる設定をカメラが自動的にほどこす時代がくるのではないか、というようなことを妄想した。

たぶん、技術的には可能だろうけど、そこまでいくと、撮影者の主体性が脅かされ、撮影する楽しみが奪われるから、あえて踏みとどまる(踏みとどまっている)のではないだろうか。
「オススメ」を裏切りたくなる天邪鬼な心根が、撮影者をよりクリエイティブに駆り立てる、ということになるのかもしれないが。

運動する都市のイメージ

 第二に、泥絵が人事・風俗のモティーフを排除するのに対して、浮世絵は人々の営みを前景化する。それは、絵師の関心の中心が、街を背景として繰り広げられる人間の〈出来事〉にあることを意味する。それに対して、人事・風俗モティーフがほとんど見られない泥絵の場合に際立つのは、都市空間そのものの〈フィジカル〉な存在である。つまり泥絵が描くのは、都市のハード面を形成する坂や道、建築物など不動のものである。主役は街そのものであって、街に生きる人間ではない。それに対し、浮世絵は都市のソフト面を描く。人事・風俗などはまさに運動する都市のイメージである。

 第三に、浮世絵が表象しようとしているものとは、移ろいゆく時間的モティーフであるといえるだろう。花鳥風月などをはじめとする循環する時間を指示する季節の景物は、広重の浮世絵にとって非常に重要な構成要素である。気がつけば過ぎ去るが、また返ってくるという循環する時間。そこに浮世絵の受容者は〈情趣〉を感じるにちがいない。また広重は、夕暮れや夜景、雨や雪など、一日の特定の時刻や気象を指示するモティーフも執拗に描いた。一瞬のうちに過ぎ去っていってしまう時間のはかなさもまた広重が好んで描くところであり、受容者はその〈情趣〉に感情移入しやすかったにちがいない。それとは反対に、泥絵の場合、花見や雪などきわめて稀な例を除いて、季節を判別することはほとんど不可能に近い。季節を表示する自然物がほとんど表象されることがないのと同様に、時刻を表示するモティーフもほとんど描かれない。泥絵には、朝焼けも夕暮れも夜景も存在しないのである。存在するのは、昼日中の抜けるような青い空の真下に静かにたたずむ江戸の街なのである。広重が時間的なものを〈情緒的〉に描くとすれば、泥絵はむしろ空間的なものを〈理性的〉に描いているといえるだろう。

トポグラフィの日本近代―江戸泥絵・横浜写真・芸術写真 (視覚文化叢書)』 佐藤守弘著 青弓社 2011 pp.41-42より抜粋

これは、泥絵と浮世絵を比較した記述だけれど、自分の関心が浮世絵師のそれとほぼ重なることにどきっとした。むろん、そのままなぞるつもりなどさらさらなく、むしろ〈情緒的〉にしか表現されなかった題材を〈理性的〉に扱おうと思っているのだが。

積みすぎた方舟

熊谷晋一郎さんの著書を読むのは『リハビリの夜 (シリーズ ケアをひらく)』以来。外出先で読んでいたのに、思わずうるっときてしまった。

未踏の社会に対して、失敗しつつも一歩を踏み出しつづけられるのは、どこかで社会のこと、他人のことを信頼している子供です。その、いわば根拠なき他人への信頼は、おそらく親との関係によって育まれる部分が大きいように思います。困ったときに誰か助けてくれるはずだと信じ、助けを求められるようになるには、困ったときに、下手でもいいから誠意をもって応じてくれた親との関係の記憶が、何よりの財産になるでしょう。そしてまた、自分を育てるにあたって、困った親が社会にヘルプを出したということ、そして、社会が親を救ってくれたということを、子は見ています。小さい子にとって、自分と親の境界線はあいまいで、親が社会によって助けられる姿は、自分が社会によって助けられる姿と不分離なものです。子が社会を信頼できるようになるという意味でも、育児を抱え込まず社会にヘルプを出す姿を子に見せることは大変重要だと思います。

ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』 熊谷晋一郎 大澤真幸 上野千鶴子 鷲田清一 信田さよ子 青土社 2013 p108より抜粋

人が社会(他者)に抱く印象は、その人と養育者との関係とパラレルだと、うっすらと感じていた。養育者への不信感は、そのまま社会(他者)への不信感だ。だから、まず、我がこととして刺さったというのもある。でもそれ以上に切実なのが、今の不寛容な社会が、想像以上のダメージを次世代に与えるかもしれないという危機感。

今、子育てをしている親たちは、不寛容な社会の中で、多かれ少なかれ萎縮していると思う。社会の側から「助けるよ」というメッセージを明確に示さない限り、「ヘルプを出す」ことすら難しいのではないかと思う。親たちを救えるように、また、親たちが躊躇なく救いを求められるように、社会を整えることが急務だと思う。

時間と空間の抹殺

〈パノラマ的視覚〉の一語に勢いづいて、ヴォルフガング・シヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史 〈新装版〉: 19世紀における空間と時間の工業化』を繙いた。

のっけからすごい表現だなぁと思ったのが、この「時間と空間の抹殺」という表現。そのくらい、当時の人々にとって鉄道のもたらした速度は脅威だったのだろう。

 時間と空間の抹殺、これが鉄道の働きを言い表す十九世期初期の共通表現(トポス)であった。この観念は、新しい交通手段が獲得した速度に由来している。所与の空間的隔たりを踏破するためには、伝統的にはある決まった旅行の時間または輸送の時間が必要であったが、この距離が、突然その時間の何分の一かで踏破されることとなり、これを裏返せば、同じ時間で昔の空間的な隔たりの何倍かが進められることになった。

鉄道旅行の歴史 〈新装版〉: 19世紀における空間と時間の工業化』(ヴォルフガング・シヴェルブシュ著 加藤二郎訳 法政大学出版局 1982) pp.49から抜粋

(前略)抹殺されたものとして体験されるのは、伝統的な空間及び時間の連続性である。この連続性は、自然と有機的に結びついていた昔の交通技術の特徴である。昔の交通技術は、旅をして通過する空間と模倣的関係にあったので、旅行者には、この空間を生き生きとした統一体として知覚させたのである。(後略)

鉄道が空間と時間とを抹殺するという考えは、交通技術が突然に全く新たな他の交通技術によって代替されたときに見出される、知覚のこのような現実喪失と理解することができよう。鉄道が作り出す時間・空間の関係は、技術以前の時代のその関係にくらべると、抽象的なものに見え、時間・空間感覚を阻害するものと写る。(後略)

同書 p53より抜粋

高速移動があたりまえの時代に生きる者としては、「抹殺」とまで言う衝撃は想像しにくいけれど(正直、大げさだなと思うし)、翻って考えると、鉄道以前の旅では、それだけ濃密な関係が、人と空間の間にあったということなのだろう。

このことで少し思いあたることがある。
写真を撮るようになってから、歩くことで、その土地への親近感が増すのに気がついた。ひと月に満たない滞在でも、歩いた土地には愛着が湧く。徒歩の次が自転車。逆に、バスで観光地を巡るパッケージツアーでは、そのような親近感は抱き難い。
「歩くと、土地との関係が近くなる」というのが、近年のわたしの発見で、鉄道の登場以前に馬車や徒歩で移動していた時代には、むしろその感覚のほうがデフォルトだったのかもしれない。

十九世期初期の人々に抹殺とまで言わしめた、鉄道の速度がもたらした「時間・空間感覚の阻害」は、朝夕通勤電車にゆられ、ときに新幹線で移動するわたしたちに、もはや何の違和感ももたらさない。テクノロジーによって、ひとびとの知覚のありようが変わるということは、今後もっと顕著に起こるだろう。
シンギュラリティーに戦々恐々としているわたしたちの有様は、22世紀からまなざせば、なんと大げさな、と、とらえられるのかもしれない。

前景の欠落

最近は、本来の目的とは違うところで、興味深い文章に出会うことが多い。今日は、横浜写真について調べようと繙いた本から。

文化史研究者ヴォルフガング・シヴェルブシュ(Wolfgang Schivelbusch)が看破したように、十九世紀後半の鉄道の発達の結果、ヨーロッパ人の知覚は劇的に変化した。産業革命以前は旅行者は、自らがそのなかに含まれる前景を仲介として、常に景観と同一空間に属していた。ところが、高速で移動する鉄道の車窓からでは、飛び去るように過ぎていく前景を捉えることはもはや不可能に近い。車上の人と景観の間には「ほとんど実体なき境目」が挿入されることになる。この前景なき空間認識を、シヴェルブシュは〈パノラマ的視覚〉―刹那的・印象派的とも言いかえられる視覚体験―と呼ぶ。(後略)

(『トポグラフィの日本近代―江戸泥絵・横浜写真・芸術写真 (視覚文化叢書)』佐藤守弘著 青弓社 2011 p112より抜粋)

「車窓から見える景色が映像的に見えるのはなぜだろう」という、10年来のモヤモヤがすっと解消した。

前景を認識できないから(処理が追いつかない)→景観と同一空間内に自分を定位することができず→景観と自分との関わりが希薄になり→リアリティの欠如→結果、景観を「映像的」と感じる、ということか。

こういう視覚の綻びが見え隠れするところが、いちばんおもしろい。

遠近法と視線

昔の投稿を繰っていて「移動焦点の原理」を見つけた。
ちょうど、少し前に遠近法と視線について書かれたものを中心に読んでいたので、あわせて書き留めておこう。

まずは猪子さんの基調講演についての記事

[CEDEC 2011]日本人は,遠近法で風景を見ていなかった。9月8日の基調講演「情報化社会,インターネット,デジタルアート,日本文化」をレポート
http://www.4gamer.net/games/131/G013104/20110910008/

以前、英語のステイトメントに「絵巻やスーパーマリオブラザーズのようなスクロールゲームに影響を受けている」と書いたとき、わたしの中でその2つは別々のものだったけれど、上の記事にその2つが同根だと分析している話があって、とても興味をそそられた。

それから、高階秀爾さんの『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い (岩波現代文庫)

 〈洛中洛外図屏風〉のように、画家の視点が自由に移動して、それぞれの視点から眺められた細部を並列的に画面に並べていくという画面構図法では、画面は、統一的な空間構成をもたず、平面的に左右にいくらでも拡がっていく傾向を持つ。西欧の遠近法的表現においては、アルベルティの『絵画論』のなかにはっきりと述べられているように、画家はある一定の視点に位置して眼の前の世界を眺め、その世界を、あたかもひとつの窓を通して見たかのような一定の枠のなかに秩序づけて表わす。その窓枠にあたるものが、すなわち画面そのものにほかならない。したがって、西欧の絵画においては、画面の枠というものは、統一的な空間構成を成り立たせるために、画家の視点と同じようにやはり不可欠の前提である。ところが、画家の視点が自由に移動する日本の画面構成においては、原理的には、画面は、視点の移動にともなっていくらでも拡大することができる。むろん実際には、屏風なり襖なりの現実の画面によって作品の枠は決定されているのだが、そのなかに表現された世界は、枠のなかだけで完結するのではなく、その枠を越えてさらに外に拡がっていく傾向をもつ。

(『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い (岩波現代文庫)』 高階秀爾著 岩波現代文庫 2009 pp.20-21から抜粋)

「画家の視点が自由に移動する日本の画面構成においては、原理的には、画面は、視点の移動にともなっていくらでも拡大することができる」つまり、画面構成そのものが、フレームの強度に影響を与えるということか。

平行移動

ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術』からの流れで読み始めた本の中に、興味深いフレーズを見つけた。

以下、『謎床: 思考が発酵する編集術』(松岡正剛、ドミニク・チェン著 晶文社 2017)より抜粋

ドミニク

「うつる」がおもしろいのは、写真の「写」だし、映像の「映」だし、しかも移動の「移」ですね。

(p125より抜粋)

松岡

平行移動に近い。バーチャルもリアルも混在して平行移動していくんですね。日本はスーパーフラット状態なんですね。ですから、浮世絵のようなああいうスーパーフラットな絵が描ける。そこに村上隆も関心をもったのだと思いますが、こちら側と向こう側が同じ大きさで描いてある。奥村政信や広重や華山ぐらいから少し遠近法が入りますが、それまでは全部同じ大きさですね。

 もともと、「源氏物語絵巻」などの吹抜屋台画法で描かれる王朝の絵巻のパースペクティブがフラットにできているんです。それとも関係があるし、鈴木清順が自作の映画の中で解明していましたが、日本の空間は視線が水平移動するんです。バニシング・ポイントがないんですよ。

ドミニク

ああ、絵巻とかは本当にそうですよね。

松岡

一点透視にならない。だから「モナ・リザ」のようなああいう絵は生まれない。バニシング・ポイントをもたず、フラットに平行移動しながらすべてを解釈していく。絵巻は右から左へ見ていきますが、そうしたあり方が日本の物語、ナラティヴィティを成立させているとも言えるわけです。どこもかもがフラットなので始まりと終わりも曖昧で、どこからでも話を始められる。その代表的なものが『伊勢物語』で、そこには伊勢が出てこない。在原業平が東下りしているだけ、平行移動しているだけの話です。

(p127より抜粋)

ちょうどスクロール用のスクリプトを調整しているさなかに、このくだりに出くわした。

バニシング・ポイントをもたず、フラットに平行移動しながらすべてを解釈していく
バニシング・ポイントがあると、どうしてもそこに視線がひっぱられる。フラットな画面だと構成要素の吸引力が等しくなり、視線が自由になる。画面の構成要素の力関係。

どこもかもがフラットなので始まりと終わりも曖昧で、どこからでも話を始められる

ディスプレイがもっと高解像度になれば、プリントにこだわらなくてもいいかもしれない。ブラウザベースであれば、映像と違い縦横比は自由自在。ループ再生で好きなところから見て、好きなところで見終えるのもよし。そんなことを考えていたところだった。

作品が長いので、展示では空間にあわせて作品を端折ることがある。ふつう、空間にあわせて作品の一部を切ったりはしない。それこそ、展示空間の都合でモナ・リザの右端を切り落としたりはしないだろう。なのに、端折ることにまったく躊躇を感じなかった。「必ずしも全部を見せなくてもいい、と思うのはどうしてだろう?」とずっと不思議に思っていた。はじめに選んだ形式(フラットであること)によって、すでに、さまざまなこと(自分の態度まで!)が決まっていたのかもしれない。

日本の物語の構造までは考えたことはなかったけれど、媒体(絵巻)の形状が、物語のあり方を規定するということは、大いにありうることだろう。まずは『伊勢物語』を読むところから。

第3形態

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たまに見かけるマトリョーシュカスタイルのミキサー車

作品のポータブルな形態として、最初は冊子、それから折本にしてみたけれど、
ロシアで撮影した作品はあまりに長く、折本に仕立てるのすら難しいと判断。で、第3形態、巻子。

わたしは、日本美術の影響を多分に受けている、という自覚がある。先行する写真作品群よりずっと深いレベルで、日本美術の影響を受けている、と思っている。

でも、それは画面の構造的な問題であって、テイストとして和を取り入れることや、安易なエキゾチシズムに回収されるような表現は、絶対に避けたいと思っている。そういうこともあって、巻子の形態を採用するのに過剰なほど警戒心を持っていたのだけれど、巻子は固定されたフレームを持たないという点で、作品にもっとも適した形態である、と、ある日ふっと腹に落ちた。

実際作ってみると、巻子は、シンプルな構造でありながら大量の情報を輸送することができる、非常に優秀なアナログツールだと思う。一方、リニア編集とか、シーケンシャルアクセス、ということばを久しぶりに思い出すくらい、「前から順に」しか目標にたどり着けない、まどろっこしさもある。(カセットテープを思い出した)

そして、手で繰ってみた実感として、わたしの作品には巻子の形態がいちばんしっくりきている。
写真集を…と長らく思っていたけれど、作品の性質として、そもそも冊子には向いていないのかもしれない。

たとえそれがどんなに些細なことであったとしても

友人のすすめで3年前にはじめたアシュタンガ・ヨガ。特に、時差が大きかったり極寒の地に赴いたとき、心身を整えるのに効果覿面で、ふだんも、ゆるゆると練習を続けている。

あるとき、たまたま手に取った本が、ジョン・カバット・ジンの『マインドフルネスストレス低減法』で、それをきっかけに、ヨガの練習後に、少しだけ呼吸に意識を向ける時間をもつようになった。

それから1年半くらい経つだろうか。

日常生活で、自分があたりまえと思っていたことが「もしかしたら、そうじゃないかも?」とか「そうじゃない考え方もあるよね?」と気づくことがふえたように思う。

たとえば、難しいヨガのポーズに対して、それまでは、できるようになりたい、の一点張りだったけれど、その朝は、「昨日と筋肉の張りや、伸ばしたときの気もち良さが違うな」ということが妙にリアルに感じられたので、「じゃあ今日は、できるできないじゃなく、からだがどう感じているかをじっくり味わってみよう」と意識の向け方を変えてみた。というようなこと。

できるできないのこだわりから離れたせいか、呼吸がそれまでよりやわらかくゆったりとしたものに変わって、そこでもう一度発見があったり。

似たようなことが、日常生活の中でも、ふえつつある。
それは必ずしもいいことばかりではなく、今まで気づかなかった微細な感情の揺れに気づくような場面もある。「あれ?こんな些細なことで、もしかしてわたし傷ついてる?」といったように。

それでも、ふとしたきっかけで、今までとは違った考え方や感じ方にひらかれ、それまで当然としていた前提を相対化できるのは面白い。たとえそれがどんなに些細なことであったとしても。

意外なところにヒントがあった

ここ数年、撮影旅行や、展覧会でバタバタしていて、知らぬ間にものが増えていた。
引っ越しや、トランクルームの利用も考えたけれど、まずはものを減らしてみようと思い、不要品の処分と部屋の整理に取り掛かったのが1年ほど前のこと。最近になってようやく、目に見えてものが減って気づいたことがある。

はじめは、身軽になりたいという思いに突き動かされていたのだけれど、ものが減って部屋が片づくと、
(誰もが言うことだけれど)まず、とても気分がいい。

そして、予期せぬ収穫は、今まで気づかなかったことに、気がつくようになったこと。

部屋のカーテンをシンプルなものにかけかえたら、翌朝、外から射し込む光が、窓ガラスを通すのと、通さないのとで、ほんの少し、緑み、あるいはマゼンタみ、を帯びていることに気がついた。
もしこれが、部屋がごちゃごちゃしていたり、にぎやかな柄のカーテンを吊っていたら、きっと気づかなかったろうと思う。日常生活での些末な気づきは、もっともっと、数え切れないくらいたくさんある。

ものが多いときは視覚刺激が多すぎて認識できなかったものが、ものが減って刺激が少なくなったせいで、より繊細に認識できるようになったのだと思う。感度が少し上がったのかもしれない。

どうしたら見る感度を上げられるか、ということをずっと考えていたけれど、意外なところにヒントがあった。

余計な刺激を減らせばいいのだ。

ベース

小学生の頃、わたしは家から少し離れたスイミングスクールに通っていた。
帰りのスクールバスは、夕暮れどきの千里ニュータウンをぬって走る。

ぽつぽつとあかりが灯りはじめる高層住宅をバスの窓から見上げながら、ひとつひとつの部屋に、それぞれを中心とした別々の世界が同時に存在する、ということを、ぼんやりと考えていた。そこはかとなく寂しい気もちで。

それからずっと後、哲学の講義で「それまでは自分と世界をひとつのものだと思っていたのが、自分とは関係なく世界が存在していることに気づいたときの幼児の痛み」という話を聞いたとき、「自分とは関係なく」のワンフレーズに、寂しさの出どころを言いあてられた気がした。

「自分とは関係なく、それぞれを中心とした別々の世界や物語が、同時に、そして無数に存在する」

幼い頃、ヒリヒリするような寂寥感とともに身につけた世界観が、自分の作品のベースにはある、と思う。

先に選択や判断がある

自分のなかですでに「ゆるぎなく決まっていること(選択や判断)」があって、その理由を何年もかけて探しながら作業をしているようなところがある、と気づいたのは最近のこと。

昨年サンクトペテルブルクで撮った写真は300カットを超え、地道に編集作業を続けていると、正直「長すぎる…」と心が折れそうになることもある。その一方で、冗長であることに確信を抱いてもいる。手を動かしながら、「なぜそんなに冗長性にこだわるの?」と、問い続ける。思い返せば、ずっとそんなふうにして作品を作ってきたのかもしれない。

というのは、「コンセプトがあって、それに向けてつくる」という枠組みで作品の説明を書くたびに、落ち着きの悪さや、嘘がある感じ、を抱いていたから。

作っている自分も、はじめから全部わかっているわけではないし、見通せているわけでもない。手を動かしながら、徐々に明らかになっていくことがある。
もしかしたら、それがおもしろくて作り続けているのかもしれない、とすら思う。

魔術のような世界だった

部屋の整理をしていると、古い印画紙の箱と一緒に、大学時代、暗室で焼いたモノクロの写真が出てきた。

いま見ると拙いものばかりだけれど、せっかくなので何枚か残そうと選びながら、印画紙の質感っていいなぁ、と感じ入る。たぶん、当時のわたしはそんなふうには思っていなかった。

グラフィックデザインを志して進学したにもかかわらず、ずぶずぶと写真にはまり込んでしまった理由のひとつは、暗室作業が好きだったから。

暗室での作業が、ただただ楽しかった。
赤いランプの下、現像液のゆらめきの中で像が浮かび上がる瞬間がものすごく好きだった。もしかしたら、しあがった写真より、像の生まれる魔術的な瞬間を愛していたのかもしれない。

暗室の隣には立派なスタジオもあって、あるとき恩師がその重厚な扉に穴を穿ち、スタジオをまるっとカメラ・オブスキュラに仕立ててしまった。その小さい穴から射し込む光が結ぶ、さかさまの像は、それこそ魔術的だった。

すっかり忘れていたけれど、写真をはじめた頃、わたしにとって写真は、魔術のような世界だった。
作品云々よりずっと手前のところで、その魔術性に魅了されてしまったのだと思う。

フルデジタル化して、ずいぶん遠のいてしまったな。
もう一度、暗室作業、やってみようかな。

ふんわり漂うのは沈丁花の香り

ふんわり漂うのは沈丁花の香り。
ついつい惹き寄せられる。

いいにおい。

春のあたたかい陽射しにくるまれるのも心地がいい。

あるときはストライプに、あるときはまだらに落ちる光と影。
くぐるようにそこを通り抜けるのもまた、楽しい。

ふと思う。
シャッターを切るときのトリガーは、必ずしも視覚によるものではない、と。

いま、ここ、にわたしの感覚を総動員しているのに、
写真におさめて「視覚に縮約する」とはどういうことだろうか。

記述方法と対象のマッチング

物理学では、科学者はモデルや理論をつくって、この宇宙に関する観測データを記述し、予測をおこなう。その一例がニュートンの重力理論であり、もう一つの例がアインシュタインの重力理論だ。これらの理論は、同じ現象を記述していながらも、まったく異なるたぐいの現実を表現している。ニュートンは、たとえば質量を持った物体が力を及ぼしあうと想像したが、アインシュタインの理論では、その効果は空間と時間の歪みによって起こるものであり、そこに力としての重力の概念は含まれていない。

 リンゴの落下はどちらの理論を使っても精度よく記述できるが、ニュートンの理論のほうがはるかに使いやすい。一方、運転中に道案内をしてくれる、衛星を使った全地球測位システム(GPS)で必要となる計算をおこなう際には、ニュートンの理論は間違った答えを与えるため、アインシュタインの理論を使わなければならない。現在では、どちらの理論も、自然界で現実に起こっていることの近似でしかないという意味で、実際には間違いであることがわかっている。しかし、適用可能な範囲で自然をきわめて正確に、そして有用な形で記述してくれるという点では、どちらの理論も正しい。

(『しらずしらず――あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』レナード・ムロディナウ著 水谷淳訳 2013 ダイヤモンド社 p66より抜粋)

旧い話だけれど、工学部に在籍していたころのわたしは、とてつもない落ちこぼれだった。
次々と出現する記号にとまどい、まったく内容が理解できない講義に「母語がこんなに理解できないなんて!」と驚きすら覚えながら、暗号を書き留めるかのように板書を写す、そんな学生時代だった。
たぶん電磁理論の講義のあとだったか。「なんで、こんなわけのわからん記号をようさん使わなあかんのやろ。」とぼやく私に、

「aはbの3倍である、bはcを6つに等しく割ったうちの1つである。と文章で記述されるより、a=b×3 b=c÷6 のほうが簡潔やし、パッと見て事実関係がわかりやすいやろ。数式は、いくつかある表現のなかで、もっとも使い勝手のいいものと思ったらええねん。」

と級友が諭すように言ったのを思い出す。
そのときにはじめて、数式を「唯一の真実」ととらえるのではなく「数ある表現のうちのひとつ」ととらえることを知った。

同じころ、言語学の講義で、that節が入れ子になっているような英文は、日本語に訳すより英語のままのほうが事実関係を把握しやすいという話を聞いた。

CがDを嫌っていることをBが悩んでいるらしい、とAが言っていた。

というような、少し複雑な状況を説明するには、英語の構造のほうが日本語の構造よりも適している、と。
そこで、記述(表現)方法と対象とのあいだには、向き不向きがある、ということを知った。

ここに出てきた物理学の理論。数式、言語。もちろん、視覚表現も然り、だろう。
記述(表現)方法と対象とのマッチングについて、あらためて考えてみる必要があるな、と思った。

動くものを見る

昔、教習所で「動くものに視線をとられるから、フロントガラスに揺れるものをぶら下げないように」と言われたことを思い出したのは、降雪の中で撮影をしていたとき。ピントをあわせるために被写体を凝視しても、雪のチラつきにずいぶん注意を奪われることに気がついた。

それから、人は動くものに、(本人たちが思っているよりもずっと強く)注意がそがれてしまうのではないか、と考えるようになった。逆に言えば、写真の「静止していること」がもたらす効果は、想像以上に大きいのではないか、と。

静止しているからこそ、つぶさに観察ができる。
誰もが知っている、ごくあたりまえのことだけれど、これは案外、重要なことではないだろうか。

先日、ふと手に取った本にいくつか視覚に関する興味深い記述を見つけた。

適切な条件下で、ある映像を左目に、別の映像を右目に同時に見せられると、その両方を何らかの重なり合った形で見ることはなく、一方の映像だけが知覚される。そして、しばらくするともう一方の映像が見え、その後再び最初の映像が見えるというように、二つの映像が際限なく切り替わる。

 しかしコッホのグループは、片方の目に変化する映像を、もう片方の目に静止した映像を見せられると、変化する映像のほうだけが見え、静止した映像はけっして見えないことを発見した。つまり、右目に、卓球をしている2匹のサルのビデオを、左目に100ドル札の写真を見せられると、左目はその写真のデータを記録して脳に伝えているにもかかわらず、本人はその写真に気づかない。

(『しらずしらず――あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』レナード・ムロディナウ著 水谷淳訳 2013 ダイヤモンド社 p56より抜粋)

このあと、変化する映像が優先的に意識にのぼり、変化しない映像は無意識の領域で処理されるという話につながっていくが、無意識の話はさておき、変化する(動く)映像のほうしか意識にのぼらないというのはすごいな、と思う。

それほどまでに、視覚のなかで「動き」が優先して処理されるとは思っていなかったから、ただただ驚いた。

投影

先日、とても興味深い話を聞いた。

現在子育て中の友人。
彼女は母親から「昔、子育てをしていたときあなた(友人自身)は神経質で、寝ついても音ですぐ目が覚めたけれど、孫(友人の息子)はよく眠ってくれる」と言われたのだそう。

わたしの知る限り、神経質なのは友人の母親のほうで、友人自身はおおらか。きっと友人の母親は、娘の寝つきの悪さを、ふつうの人よりずっとずっと心配したのではないかと想像する。

この話を聞いたとき、「投影」ということばが頭をよぎった。他者をとらえようとするとき、そこには「私」の気質や性質が否が応にも投影されてしまうのではないかと思う。

自他の境界は、思っている以上に曖昧なのかもしれない。

あたたかい言葉は時間を越えて、もう一度わたしの心をあたためる

年末なので溜まっていた手紙をすこし整理することにした。
が、そういうときに限って、読み耽ってしまうもの。

友人や親戚、家族から、あたたかい心遣いや言葉をたくさんかけてもらっていたことに、あらためて気がつく。そして、あたたかい言葉は時間を越えて、もう一度わたしの心をあたためる。

時間を経て読み返すと、そのときどきのわたしに寄り添い、励まし、勇気づけようと、慎重に言葉を選んでくれたことが、よくわかる。きっと渦中にいるときより今のほうが、その心くばりの濃やかさがよくわかる。

紙の香りや手ざわり、したためられた文字の勢い、やわらかさ。そういった「情報としての文字」ではないものを堪能しながら、メールもLINEもFacebookも便利だけれど、やっぱり気もちを伝えるのは手紙のほうがいいな、と思う。

ということで、取り出した手紙は全部箱にしまい、明日はバースデーカードを買いに出かけようと思う。

行為と思考の境界

数学する身体』(森田真生著 新潮社 2015)から気になった箇所を。

(前略)はじめは紙と鉛筆を使っていた計算も、繰り返しているうちに神経系が訓練され、頭の中で想像上の数字を操作するだけで済んでしまうようになる。それは、道具としての数字が次第に自分の一部分になっていく、すなわち「身体化」されていく過程である。

ひとたび「身体化」されると、紙と鉛筆を使って計算してたときには明らかに「行為」とみなされたことも、今度は「思考」とみなされるようになる。行為と思考の境界は案外に微妙なのである。

行為はしばしば内面化されて思考となるし、逆に、思考が外在化して行為となることもある。私は時々、人の所作を見ているときに、あるいは自分で身体を動かしているときに、ふと「動くことは考えることに似ている」と思うことがある。身体的な行為が、まるで外に溢れ出した思考のように思えてくるのだ。

思考と行為の間に、はっきりとした境界を引くのは難しい。そのことを強調するために「数学的思考」の代わりに、しばしば「数学という行為」と表現していくことにする。
(pp.39-40から抜粋)

昔、制作に行き詰っていたときに、恩師から「ただ考えるのと、手を動かしながら考えるのは違うから(手を動かしてみてはどうか)」と言われたのを思い出した。

ノイズ

ある作家のコンセプチュアルな写真作品。実際に作品を見るのは、ほとんどはじめてのことなので、とても期待をしていた。しかし、そのクオリティの高さとコンセプトへの見事なアプローチにも関わらず、ほとんど何も感じるところや考えるところ、思うところがなかったことに驚いた。

それから、そのことをずっと考え続けている。

作品を前にしたときに、観者は、言語化できなかったり、明確に意識化できない「何か」を受け取っているのではないか?そして観者の認知や判断は、少なからずその「何か」に依存しているのではないか、と。

少し前に読んだ『数学する身体』(森田真生著 新潮社 2015)の興味深い記述を思い出した。

かいつまんで書くと…
進化電子工学の研究で、ある課題を実現するチップの設計プロセスそのものを、人間の手を介さずに人工進化の方法だけで試みたところ、興味深い結果を得た。四千世代ほどの進化の後に、無事タスクをこなすチップが得られたが、そのチップは人間が設計した場合に最低限必要とされる論理ブロックの数を下回る数の論理ブロックしか使用していない。普通に考えるとその論理ブロックの数では機能するはずがない。数が少ないうえに、ほかの論理ブロックと繋がらず機能的にはどんな役割も果たしていない論理ブロックが5つも見つかった。だが、この5つの論理ブロックのどれ一つを取り除いても、回路は働かない。(おもしろくなってきた…)
そこで、この機能を果たしていないかのように見えるチップを詳しく調べたところ、この回路は電磁的な漏出や磁束を巧みに利用していたことがわかったという。

普通はノイズとして、エンジニアの手によって慎重に排除されるこうした漏出が、回路基板を通じてチップからチップへと伝わり、タスクをこなすための機能的な役割を果たしていたのだ。チップは回路間のデジタルな情報のやりとりだけでなく、いわばアナログの情報伝達経路を、進化的に獲得していたのである。

(『数学する身体』 森田真生著 新潮社 2015 pp.34-35から抜粋)

同じようなことが作品を介したコミュニケーションでも起こっているのではないだろうか。

言語として整えられたコンセプト(作家の意図)から漏れ出たノイズのようなものを、わたしたちは暗黙のうちに受け取っているのではないだろうか。とりわけ写真はノイズと親和性のある(というよりノイズにまみれた)メディアであるにもかかわらず、わたしが見た作品からはノイズが排除されすぎていたのではなかろうか。

七夕の夜

七夕の夜、珍しく母に作品の話をした。

フレームの中に何を選びとり、そして、焦点によってどの奥行きを選んで際立たせるか。写真は徹底して「選ぶ」ことに依拠しているけれど、フレームとピントによる選択を無効化してもそれでも作品として成立するだろうか?ということを考え続けている。と。

母に話したのはそこまでだけれど、選択を無効化するということを目指しながらも、それでもやはり周到に避けている(選ばないでいる)ものがあることには薄々気がついていて、最近は、何を撮るかより何をフレームからはずしているか、に関心が向いている。

先日、IZU PHOTO MUSEUMでフィオナ・タンの《Accent》を観た。

戦後、検閲は廃止され、報道の自由が保障されるようになったが、アメリカは検閲を行い、日本人の愛国心をかきたてるおそれがあるとして、映画から富士山のシーンを削除した。そして、その検閲は日本国民には知らされず、富士山の削除自体がわたしたちの認識から削除されていた。

わたしが展示室に入ったのは、おおよそ、そのような内容のセリフが語られているシーンだった。(正確にセリフを覚えていない)

少し面食らった。

時間軸(タイムライン)から削除されたり、フレームからはずされたりしたものがある、ということに、ふつう人は気づけない。

さまざまな情報戦が繰り広げられるこの時世に、はずされたものについて考える重みをずっしりと感じた。

抑制が効いているからこそ

抑制の効いた表現に、ぐっときた。
あるときは、アウシュビッツを描いた体験記録に。またあるときは、広島をうつした写真群に。
むしろ、抑制が効いているからこそ、なのかもしれない。

「淡々と描かれているから読めるのよ」そう母は言った。
それ以来、抑制が効いているからこそ、ということを考えるようになった。

はっきりいえば、私たちは他人の「涙」に泣くのではなく、他人の抑制に泣くのである

多田道太郎

涙の記憶は誰にも数知れずあるから、他人のそれにもついほだされる。けれどもそのとき人は「泣きたい心持ちをぐっとこらえるその抑制の身ぶり」に涙しているのだと、仏文学者は言う。かつて泣きたくても泣けぬ口惜しさを必死でこらえた自分への憐憫(れんびん)? 実際、抑えきれるのは演じうるということでもあって、それに騙(だま)された人も少なくはない。「しぐさの日本文化」から。(鷲田清一)

折々のことば http://digital.asahi.com/articles/ASJ6C779DJ6CUCVL006.html?rm=130 より

経験識閾

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳 みすず書房 2012)の以下のくだりは、ものすごく興味深い。それぞれの文化のなかで、(ふだん意識していないが)ものごとを認知するうえで何に重点を置いているか、ということが言語からあからさまにわかる例。

(前略)マッチの火が瞬いて消えそうになる。男たちは、「マッチがイビピーオする」と言った。別の晩にも、消えかかるキャンプファイアーを前に、この言葉が同じように使われた。このような状況では、イビピーオは副詞として用いられてはいなかった。

(中略)ある物質が視界に入ってくる、または視界から出ていくという状態を表すために使われるものなのだ。誰かが川の湾曲部を曲がって現れるのは視界に入ってくることだし、それならば何かが視界から消えるとき、たとえば飛行機が水平線の彼方に見えなくなるのにピダハンがこの表現を使うのもうなずける。
(p183から抜粋)

イビピーオは、ぴったりと重なる英語の見つからない文化的概念ないし価値観を含意していると思われる。もちろん「ジョンは消えた」とか、「ビリーがたったいま現れた」という言い方をすることはできる。しかしこれはイビピーオと同じではない。第一に英語では「消えた」というときと「現れた」というときに別々の言葉を用いるのだから、両者は別々の概念だ。またここが肝心なのだが、われわれ英語圏の話しては、現れたり去って行ったりする人物のほうに焦点を当てていて、誰彼がわれわれの知覚の範囲に入ってきたとかそこから出て行ったとう事実に着目しているのではない。

最終的にわたしは、この言葉が表す概念を経験識閾と名付けた。知覚の範囲にちょうど入ってくる、もしくはそこから出ていく行為、つまり経験の境界線上にあるということだ。消えかかる炎は知覚経験のうちと外を絶えず行き来する炎なのである。
(pp.183-184から抜粋)

現れる、あるいは消えるという現象に重きをおくピダハンの認知のありようから、翻って、自分の属する文化の認知のありようはどうなのか?と、考えるきっかけになる。

認知と文化

先の『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳 みすず書房 2012)から、認知と文化に関する記述で気になったところを書き留めておく。

“写真を読み取るという一見ごく誰でもできそうなことの背景にも、文化が色濃く関わっている”

アナコンダを流木と見誤ったこの経験から、わたしは心理学者がとうの昔に知っていた事実を教わった。認知とは学習されるものなのだ。わたしたちは世界をふたつの観点から見聞きし、感じ取る。理論家としての視点と宇宙の住人としての視点と。それもわたしたちの経験と予測に照らし合せて見ているのであって、実際にあるがままの姿で世界を見てとることはほとんど、いやまったくと言っていいほどないのである。
(p.314から抜粋)

わたしのような都会人は、道を歩く時には車や自転車、ほかの歩行者には注意を払うが、爬虫類を警戒はしない。ジャングルの道を歩くときに何に気をつければいいのか、わたしにはわからない。この夜のことも、認知と文化に関する教訓であったわけだが、とはいえそのときにはそれをはっきり意識していたわけではなかった。わたしたちは誰しも、自分たちの育った文化が教えたやり方で世界を見る。けれどももし、文化に引きずられてわたしたちの視野が制限されるとするなら、その視野が役に立たない環境においては、文化が世界の見方をゆがめ、わたしたちを不利な状況に追いやることになる。
(pp.345-346から抜粋)

都市の文化的社会ではジャングル暮らしの秘訣が身につかないように、ピダハンのジャングルを基盤とした文化では都会生活への備えがうまく身につかない。西洋文明育ちなら子どもでもわかるようなことが、ピダハンにはわからない場合もある。たとえば、ピダハンは絵や写真といった二次元のものが解読できない。写真を渡されると横向きにしたりさかさまにしたりして、ここにはいったい何が見えるはずなのかとわたしに尋ねてきたりする。近年彼らも写真を目にする機会が増えてきたので、だいぶ慣れてはきたが、それでも二次元描写を読み解くのは、彼らには難儀なようだ。(後略)

写真を読み取るという一見ごく誰でもできそうなことの背景にも、文化が色濃く関わっていることが、ここからもわかる。
(pp.347-348から抜粋)

エクソセントリック・オリエンテーション

先のピダハンの続き。方向の認識のくだりが印象的だったので、少し長いけれど抜き出してみる。

 その日の狩りの間、方向の指示は川(上流、下流、川に向かって)かジャングル(ジャングルのなかへ)を基点に出されることに気がついた。ピダハンには川がどこにあるかわかっている(わたしにはどちらがどちらかまったくわからなかった)。方向を知ろうとするとき、彼らは全員、わたしたちがやるように右手、左手など自分の体を使うのではなく、地形を用いるようだ。

わたしにはこれが理解できなかった。「右手」「左手」にあたる単語はどうしても見つけることができなかったが、ただ、ピダハンが方向を知るのに川を使うことがわかってはじめて、街へ出かけたとき彼らが最初に「川はどこだ?」と尋ねる理由がわかった。世界のなかでの自分の位置関係を知りたがっていたわけだ!

(中略)いくつもの文化や言語を比較した結果、レヴィンソンのチームは局地的な方向を示す方法として大きく分けてふたつのやり方があることを見出していた。多くはアメリカやヨーロッパの文化と同様、右、左のように体との関係で相対的に方向性を求める。これはエンドセントリック・オリエンテーションと呼ばれることがある。もう一方はピダハンと同様、体とは別の指標をもとに方向を決める。こういうやり方をエクソセントリック・オリエンテーションと呼ぶ者もいる。
(『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳 みすず書房 2012 pp.301-302から抜粋)

最初はこの方向の認識を、ふしぎに感じたけれど、よくよく考えると、わたしたちもけっしてエンドセントリック・オリエンテーションだけで生活しているわけではない。

友人が京都に来たときに「西宮や神戸での生活が長いと、どうしても山があるほうを北だと思ってしまう。だから京都に来ると山に囲まれているから、うっかり東山のほうを北だと勘違いしてしまう」と言っていたのを思い出す。地元、神戸の百貨店では店内の方向を示すのに「山側」「海側」という表示が採用されている。

友人の話を聞いたときは、「ふーん、そうなんだ…」と、まったくひとごとのように聞いていたけれど、札幌で撮影をしたときに、南に山があるせいで方向感覚がからっきし狂ってしまって驚いた。「山=北」の認識は相当根深いようだ。「北」と言葉で認識するというよりは、山を背にして左手から日が昇るものだと思っている、というほうが正確かもしれない。

3週間強の札幌滞在の最後まで、山を背にして右から日が昇ることに馴染めなかった。「なんでこっちに太陽があるの?」と違和感を感じては「そうか、山は南にあるんだ」と思い直す。毎日ずっと、それを繰り返していた。

ピダハン

ずっと読みたいと思っていた『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳 みすず書房 2012)。

ピダハンには「こんにちは」「ご機嫌いかが」「さようなら」「すみません」「どういたしまして」「ありがとう」といった交感的言語使用が見られない(感謝や謝意、後悔の気持ちは言葉ではなく行動で示す)。彼らは色の名を持たず、数を持たず、左右の概念を持たない。また、彼らは精霊を見ることができ、夢と日常をほぼ同じ領域のもの、同じように体験され、目撃されるものととらえている。絵や写真といった二次元のものを解読できないが、暗闇の中で30m先に佇むカイマン(ワニ)の存在を感知することができる。

伝道のためにその地に赴いた著者が、最終的には無神論者になってしまう結末は小気味いい。”ピダハンは類を見ないほど幸せで充足した人々だ”と著者に言わしめるほど幸せに見え、そもそも迷える子羊ではなかったのだ。

どれも興味深いのだけれど、その中でもいちばん興味深いのは、ピダハンの文化では体験の直接性が重んじられること。

ピダハンは食料を保存しない。その日より先の計画は立てない。遠い将来や昔のことは話さない。どれも「いま」に着目し、直接的な体験に集中しているからではないか。(p.187から抜粋)

ピダハンの言語と文化は、直接的な体験ではないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。(p.187から抜粋)

叙述的ピダハン言語の発話には、発話の時点に直結し、発話者自身、ないし発話者と同時期に生存していた第三者によって直に体験された事柄に関する断言のみが含まれる。(pp.187-188より抜粋)

そして、色名や数を持たない理由が、この文化的制約に結びつく。

ここに挙げられたピダハンの表現をできるだけ逐語的に訳すと、「血は汚い」が黒、「それは見える」または「それは透ける」が白、「それは血」が赤、そして「いまのところ未熟」が緑だ。

 色名は少なくともひとつの点で数と共通項がある。数は、数字としての一般的な性質が共通するものをひとまとめに分類して一般化するものであって、特定の物質だけに見られる、限定的な性質によって区分けするわけではない。同様に色を表す表現も、心理学や言語学、哲学の世界で縷々研究されてきたように、多くの形容詞とは異なり、可視光線のスペクトルに人工的な境界線を引くという特異な一般化の役割をもっている。

 単純な色名がないとはいえ、ピダハンが色を見分けられないとか、色を表現できないというわけではない。ピダハンもわたしたちと同じように身のまわりの色を見ている。だが彼らは、感知した色を色彩感覚の一般化にしか用いることができない融通の利かない単語によってコード化することをしない。その代わりに句を使う。(pp.169-170から抜粋)

直接体験したことを話すのに、すでに一般化された単語では用をなさないということか。思わず太字にしてしまったこのくだりが、ものすごく刺さった。

なんだかほっとする

マルシュルートカから地下鉄に乗り継ぐЧёрная Речка(チョールナヤ レーチカ)の駅前。撮影の行き帰りに通る駅なので、帰りにこれを見かけると、なんだかほっとする。いつの間にかヒゲ生えとるし。

雪遊び

最初、木にひっついている目と口っぽい造作を見たときに「たまたま?」と思ったけれど、いくつか同じようなものがあったので雪遊びなんだと確信。

play in snow 染田リサ

こちらはベースに色をつけている。

play in snow 染田リサ

滞在中に見た中で一番いいなぁと思ったのは、この木にへばりついている謎の動物。しかも、脚がはずれたりしていたら、通りすがりの子どもがちゃんと補修していた。

play in snow 染田リサ

クロンシュタット

kronstadt 染田リサ

フィンランド湾に浮かぶコトリン島の中にクロンシュタットという街があります。要塞だったのでお堀に囲まれているゾーンがあり、レジデンスはこのエリアに位置します。サンクトペテルブルクの市街地へは、マルシュルートカ(K-405)と地下鉄を乗り継いでおよそ1時間半。

ところで、以前、ブリューゲルの雪景の絵を見たときに「ほんとうにこんな色なんかなぁ?」と疑ったことがあったけれど、ほんとうにこういう色に包まれることがあるのね。

旅をして、はじめて知る光の色があるなぁ。

ようやく雪が。

聞くところによると、1月には-25度まで下がったというのに、到着した時点では雪はほとんど残っておらず。気温も3度と例年よりも高く、「このまま春になるかな」と茶化されたりしたこともあって、不安に思っていたところ、ようやく雪が。

snowfall 染田リサ

ふしぎなご縁

同時期に滞在するアーティストが日本人だということを到着するまで知らなかった。奇しくも年齢も同い。ロシア西端の小さい島で、同い歳の日本人と一緒に滞在するとは思わなかった。

Jun’ichiro ISHIIはフランス在住のアーティスト
http://www.reart.net/

テレビで、「手で洗うのは効率は悪いけれど、固さやハリで、ネギの甘みや出来がわかる」と農家の方がネギを洗いながら話している場面があった。

おもしろいなぁと思う。

ふだん洗いものをするとき、洗い残しがないか最後指でなぞって確認するように、意識していなくても、目で確認しきれないものを指先の感覚がとらえることを、わたしたちは知っている。手の繊細さは、なにも特殊な技能習得者だけのものではない。

指先を切ってパックリ傷口があいたとき、その感覚がまったく狂って困ったことがある。こんな小さな傷で、こんなに困るのか!と驚いたことを思い出す。

わたしたちは生活の中で、うまいこと感覚を使い分けている。
そして、案外、多くの場面でその感覚に頼っている。

フレームの解体

同僚が買ったばかりのおもちゃを嬉しそうに見せびらかしていた。
RICOH Theta

テレビショッピングさながらに機能を披露していたが、そのなかでもおもしろかったのが、360度の動画。動画なのに、視界を自分の好みの方向にかえられる。それもYouTubeにアップされた360度動画を、PCやスマホで見ることができる手軽さがすばらしい。

今まで、静止画の360度をおもしろいとは思ったことがなかったけれど、なぜかこれが動画になるとおもしろい。ストーリー性の強い動画、例えば事件の起こっている場面で、全然関係のない方を向くこともできる。フレームが解体された動画だ。

もしフレームがないと成立しないのであれば、逆に、どれだけフレームに依存していたかということがあぶりだされる。暗黙のうちに了解されていた映像の文法が無効になることで、逆に、どういう文法を使っていたのかということが明らかになるかもしれない。

もうひとつおもしろかったのが、スマホで見る場合、画面を操作するのではなく、スマホ本体を右に向けたり左に向けたりすると、360度動画の視界も右や左に移動する。マウスやタッチパネルで操作するよりも、スマホをリアルに動かすほうが、映像が連動する感動が大きいのと、リアリティを感じる。スマホが異空間に向けて穿たれた穴のようにすら思えてくる。操作が日常行為に近ければ近いほど、映像とリンクしたときのリアリティが強いのかもしれない。

千切りキャベツの袋

最近、実家の冷蔵庫に千切りキャベツの袋が常備されるようになって、野菜は、その滋味を味わう以前に、健康(あるいは美容)のために食べなきゃいけないもの、という記号として消費されている側面が大きいよなぁ…ということを考える。

切った状態で袋に入っていると、それが新鮮なのか、美味しそうな体をしているのか、まったく判別できないから、わたしは絶対に買わない。そう考えると、日常生活でいちばん集中してものを見るのは生鮮食品を選ぶときかもしれない。

色つや、肌理、張り…そういうものを見極めるときの「見る」経験を作品化したいとずっと考え続けている。

記号と、たたずまい。

距離を尊重する

 マリオンは「ディスタンス(距離)」について語っています。それは神と人間との距離であり、父なる神と子であるキリストの距離です。「偶像」はこの距離を縮めます。イコンはこの距離を尊重します。(後略)

(『贈与の哲学―ジャン=リュック・マリオンの思想 (La science sauvage de poche)』岩野卓司著 丸善出版 2014 p148-p149より抜粋)

このあとには、肯定神学、否定神学を通じてどのように神との「距離を尊重するか」という話が続く。

「距離を尊重する」ということばが、とてもしっくりくる感じがあって、本筋を離れてどんどん思いはふくらむ。ひとつは、写真における距離の問題。もうひとつは、人間関係の距離の問題。

特に後者。同世代の友人と話をしていると、人間関係の不調は結局、(心理的な)距離感の齟齬として話が着地することが多い。それをずっと、距離の近さ、つまりは量的な問題だと捉えていたけれど、このくだりを読んで、量の多寡ではなく、相手との距離を尊重することができるかどうか、姿勢の問題かもしれないと思った。

見えないもの/見えるもの

そもそも偶像とは何でしょうか。それは「見えないもの」を「見えるもの」にしたものだと、ひとまずはいえます。神という見えないものを見えるようにしたのが偶像なのです。

 これをマリオンは「眼差しが支配する」と表現しています。われわれの眼差しが、対象を自分に引き寄せ、それで像を作ってしまう。本当は見えない神を「まあ、このあたりでいいだろう」と考えて作ってしまうわけです。このことは、実際に像を作ることだけではなくて、われわれのものの考え方においても、見えないものを見えるレベルまで落として拝んでいることにつながってきます。

(中略)

 ここまで語ってきた「偶像」に対して、マリオンはもうひとつ「イコン」という概念を考えます。古代ギリシア語では「アイコーン」で、似姿やイメージを指す言葉です。有名なのは聖書や聖人などの逸話を描いた聖画像ですね。カトリックにもありますが、東方教会がよく知られています。イコンというと、聖人は描かれますが、神は出てきません。神を描くのはやはりまずいわけですね。マリオンの考えでは、イコンにおいても見えざる神様への通路があるのです。「見えないものがある」というふうに描いていくのが画家の腕で、見えるものから見えないものへと無限に遡行して近づいていくのが、こうした聖画像の特徴です。

 ここで整理すると、見えないものを見えるもののレベルまで押し下げてしまったのが、「偶像」でした。いっぽう「イコン」は、見えるものから見えないものへ遡っていきます。

(『贈与の哲学―ジャン=リュック・マリオンの思想 (La science sauvage de poche)』岩野卓司著 丸善出版 2014 p138-p139,p142-143より抜粋)

少し遠出をして散策した場所が、昔見た作品の撮られた現場であることに気づいた(あ、ここか!)のがつい最近のこと。

そしてこのテキストのおかげで、ようやく10年前に見た作品のことが少しわかりかけている。その展示では、細心の注意を払わないと見えないこと、見えるものを通して見えないものの存在が垣間見えること…そういうさまざまな「見る」を構造的に扱っていた、と。

当時は、写真の美しさや世界観だけで充分成立しているように思えたのだけれど。

自らを与える出来事

贈与論だと思って手にとってみたら、ところどころ芸術に話が及んでいる。少し気になる箇所を抜粋。

 なぜなら、芸術作品はそれが与える効果において現れているものだからです。絵画鑑賞の際にわれわれの眼差しに現れるものの中に、物質性、有用性、存在を「還元」しても残るような、視覚を超えたものを芸術は与えてくれる、と彼はいいます。これは純粋に現れているものなのです。これは視覚で捉えるけれども、ふつうに視覚で捉えている物質的なものを超えています。メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』を引きながら、何か見えないものがある、それをわれわれは見ている、という言い方を彼はしています。

 こういった意味で、芸術は純粋に与えられているものといえます。あるいは、もっと正確には、芸術は自らを与える出来事なのです。だから、芸術作品の芸術性について考えていくと、物質性、有用性、存在は「還元」され、「与え」が現れてくるのです。「還元をすればするほど与えがある」というわけです。

(『贈与の哲学―ジャン=リュック・マリオンの思想 (La science sauvage de poche)』岩野卓司著 丸善出版 2014 p29-p30より抜粋)

 現代のテクスト理論にも影響を及ぼしていますね。フランス語だと作家や作者は「auteur」です。また、神は「Auteur」で、大文字の作者、世界を創造した人、ということになります。こういうアナロジーがあることから、「神の死」から「作者」という概念自体も問い直そう、という考えが出てきます。

 僕らが作品を書くとき、僕らは何らかの意図とともに作品を書きますが、できあがった作品の中には、僕らの意図を超えて無意識をはじめいろいろなものが入ってきます。言語というのは僕らが意識的に統御できないもので、神の概念も終焉を迎えたのだから、「作者」に支配されないテクストの独自の動きを考えていいのではないか、というわけです。(後略)

(同著 p129-p130より抜粋)

感受性の針

少し肌寒くなってきたせいやろか。
友人のことばを借りると、感受性の針がふれやすくなっているのかもしれない。

実家で切り花の落とした房をわざわざ小さいコップに飾ってあるのを見つけては、わたしも同じことをしてる(これはMOTTAINAIとかわいそうがないまぜになった気もちだな)…やっぱりこのひとの娘なんだなぁとしんみりしたり。

店でboursinが少し手ごろになっているのを見かけては、昔boursinをつかった美味しい手料理をふるまってもらったことを思い出す。テキパキと料理をつくる後姿を見ているのが好きで、いざ料理ができあがると、まだ見ていたかったとほんの少し残念な気もちになったことまでありありと蘇る。

怪我の功名?

あろうことか、デジタルカメラを全滅させてしまい、久しぶりにアナログの35mmを持って出かける。しかもフルマニュアル機。これが思いのほか新鮮やった。

露出を測って、絞りとシャッタースピードを全部手であわせるので、スナップにしてはずいぶん手間がかかるけれど、手間がかかる分、何を撮りたくて、何を撮りたくないかのフィルタリングが厳しくなる。

デジタルのスナップだと刺激に応じて矢継ぎ早に撮っていたのが、アナログのフルマニュアル機だと、撮りたいと思ってから撮るまでに溜めができて、被写体との関わりが少し変容するように思う。浅い呼吸が、少し深くなるような感じかな。ちょっとスピードを落としてみるのも悪くないなと思う。

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