なだらかに

写真の下部ではブツブツのついたシートを見ているはずが、上部に向かうにつれなだらかに、意識はガラスに反射する風景のほうに向き、シートそのものからは後退する。映像の支持体になると、ものの質感や存在感を感じられにくくなるのだろうか?

なだらかに

夜、車窓から外をみようと思っても、光の反射が邪魔をしてなかなか外を見ることができない。幼いころに経験したそういうもどかしさに少し似ているかもしれない。

見ようとしてもなかなか見えない。

部屋の少しふかいところに陽が射し込むと、
わたしの肩でチリチリと、ジャカランダの影が踊る。

そう。踊るの。
揺れるのでもなく、揺らぐのでもなく。

コピーのコピーのそのまたコピー

透けて見える、あるいは何かを通してものを見ることに関心があり、岡田温司さんの『半透明の美学』(岩波書店 2010)を繙いた。

まず、自分がスナップでよく撮る、窓、影、覆い(ヴェール)といったものが、実に古典的なモチーフであることをあらためて認識し、さらにいくつかの興味深い記述にも巡りあう。そのひとつが、絵画の起源について。

戦地に赴く恋人の影をなぞったのが絵画の起源(プリニウス)
痕跡
生前イエスがハンカチに顔を当てると、そこに染みのような痕跡として残ったとされ、それがイコンの起源として語り継がれてきた(キリスト教)
鏡像
水面に映る自分の姿に恋をしてしまったギリシア神話の美少年ナルキッソスが絵画の発明者とみなされる(アルベルティ)

これら三つの神話が紹介されたあと、以下のように続く。

 影と痕跡と鏡像、これら絵画の起源とされるものを、それぞれ別のことば、とくに作用を意味する用語で言い換えるとすれば、順に、投影(プロジェクション)、接触(タッチ)、反省ー反射(リフレクション)ということになるだろう。

 さて、これらの神話で興味深いのは、いずれも、絵画的イメージが、対象を直に模写したり模倣したりした結果によるものではなくて、媒介物をあいだにはさむことによって生まれたとされていることである。投影にせよ接触にせよ反省ー反射にせよ、それらの作用によってあらかじめ二重化されたものが、対象と絵のあいだの媒介項として想定されているのである。パースの記号論を援用するなら、絵画はもともと、類似にもとづくイコン記号としてでも、約束にもとづくシンボル記号としてでもなく、因果関係にもとづくインデックス記号として誕生した、ということになるだろう。周知のように、プラトンは、この世の事物をイデア界のコピーにすぎないととらえ、そのまたコピーが絵画にほかならない、したがって絵画はイデアからかけ離れることはなはだしいと難じていたのだが、それどころか、これらの神話をプラトン流に読み替えると、コピーのコピーのそのまたコピーということになるだろう。

(『半透明の美学』岩波書店 岡田温司著 2010 p18より抜粋)

今さらながら、対象を直接描いたんじゃなかったんだ!ということに驚く。
とりわけ、ひとつめの影については、なんでわざわざ影?直接描いたものではだめなの?と思ったけれど、よくよく考えてみると、戦地に赴く恋人を見送る立場であれば、「恋人由来の何か」「より直接的に恋人の存在を感じられるもの」を所有することが重要なのだろう。絵画は恋人がその場にいなくても想像で描くことができるが、影は恋人がその場にいなければなぞることができない。存在から得られるもの(存在がなければ得られないもの)。だから影でなければならなかったのだ。

写真の文脈で何度も出てくる、インデックスという言葉。その意味をわかったつもりでいたけれど、ここにきてようやく腑に落ちた。

ちょうど今の時期、太陽が低く影が長く伸びる季節は、ときに一瞥しただけでは何の影かがわからなかったり、ものより影のほうが存在感を示すことがある。そういったものと影の乖離や反転、両者が識別不能なまでに混じりあう様にわたしはどうしようもなく惹かれているが、イメージの起源にまで遡れば、大切な存在をより直接的に感じるための影うつしであった、と。

見えているのに見えていないこと

15年分のスナップ総ざらえも、あと少し。

ステキと思って撮ったのでは「ない」もの。なんかようわからんけど気になるわと思って撮ったものばかりを集めてみると、自分の関心がどこにあるのかが少しクリアになってきた。

視覚のくせ(エラー)が垣間見えるような場面、画面要素の拮抗状態、前後関係の撹乱をはじめとする識別不可能性。見えなさ。

フェンス(ネット)より手前に突き出ている枝に対しては、立体感や奥行きを感じたりディテールを見ることができるのに、フェンスより奥のものに対しては、奥行きや立体感を感じたりディテールを見ることができない。

むしろフェンスがつくる平面に像がペッタリ吸着されているような気さえする。脳内では面の認識が優先されているのだろうか?

こういった見えているのに見えていないこと。見えなさ。

備忘録

  1. 写真が奥行きを約めてしまうことによる見えの変容
  2. 平面、あるいは平面が仮構された状況。及び、その平面への介入
  3. 透けてみえる対象が映像のように感じること(質感の混在が原因?)奥行きが失われるように感じること

人間の視覚では捉えられない無意識の世界をレンズが〜という話ではなく、ひとは見ているつもりになっているが、そもそも目の前にあるものすらあまり見ていない、とあらためて。

満足であるというのは過激なこと

先日、@CKUAで観たジェン・ボー(鄭波)の展覧会で、参考書籍として紹介されていた本の中に、好きな装丁のものがあり、後日、あらためて探し求めた。

植物と叡智の守り人

ネイティブアメリカンの植物学者が描くうつくしい世界観に触れ、しばらくこちらの世界に戻ってきたくなくなってしまった。それも、ただうつくしいのではなく、現代社会に対する鋭い洞察がいたるところにちりばめられている。心に刺さったところをいくつか書き留めておこうと思う。まずは、経済について。

ネイティブアメリカンの社会では、感謝、とりわけ地球や大地に対する感謝が重視されるが、資本主義社会でドライブのかかった欲望に歯止めをかける力を、著者はこの感謝という行為に見出している。

以下の記述は、著者が夢で見た光景ではあるが、心理描写が興味深い。

つい先日、その市が、鮮やかな質感とともに私の夢に出てきた。私はいつものように腕に籠を抱えて売店を縫って歩き、エディータの店に採りたてのコリアンダーを買いに行く。楽しくおしゃべりをした後、お金を払おうとするとエディータは、要らない、と手を振り、軽く私の腕を叩いて立ち去らせようとする。贈り物よ、と彼女が言う。どうもありがとう、と私は答える。お気に入りのパン屋では、丸いパンの上に清潔な布をかけてある。私はパンをいくつか選んで財布を開けるが、ここの店主もまた、まるでお金を払おうとするのが失礼なことでもあるかのように、要らない、と身ぶりで示す。私は困惑して周りを見回すーー見慣れた市場のはずなのに、様子がガラリと変わっている。私だけではなく、誰もお金を払っていないのだ。私はすっかり嬉しくなって、市場を足取り軽く歩き回る。ここで使える通貨は感謝だけなのだ。すべては贈り物なのである。まるで野原でイチゴを摘んでいるみたいだーー行商人たちは、地球からの贈り物を次の人に手渡す仲介者にすぎないのである。

わたしは自分の籠の中身を眺める。ズッキーニが二本、玉ねぎ一個、トマト、パン、それにコリアンダー。籠はまだ半分空だが、一杯になったみたいに感じる。必要なものは全部揃っている。私はチーズを売っている店に目をやり、買おうかな、と考えるが、買うのではなくてもらうことになることを考え、やっぱりやめることにする。おかしなものだーー市場にあるものが全部、単にとても安いだけだったら、ふだん私はできるだけたくさんのものを買っただろう。でも全部が贈り物となったら、自制心が働いたのだ。必要以上のものは受け取りたくない。そして、明日私は何をお礼に持ってこようかと考え始めた。

もちろん、その夢は消えてしまったが、とても嬉しかった気持ちと自制心は消えなかった。それ以来何度もそのことを考え、私はそのとき、市場経済から贈与経済へ、私有財産から共有財産への転換を目の当たりにしたのだということが今ではわかる。そしてその転換によって私たちの関係は、手に入れた食べ物と同じくらい滋養たっぷりなものになった。(後略)

(『植物と叡智の守り人』 ロビン・ウォール・キマラー著 三木直子訳 築地書館 2018 pp.47-48から抜粋)

市場にあるものが全部、単にとても安いだけだったら、ふだん私はできるだけたくさんのものを買っただろう。でも全部が贈り物となったら、自制心が働いたのだ。必要以上のものは受け取りたくない。

贈与経済では、過剰な欲望は抑止される。これは、大事なポイントではないだろうか。

さらに、「感謝のことば」あるいは「すべてのものに先立つ言葉」として古くからネイティブアメリカンに伝わる慣習を紹介する章では、以下のように記されている。

感謝のことばを聞いていると、否応なく豊かな気持ちになる。それに、感謝の気持ちを表現するというのは素朴な行為に見えるかもしれないが、それは実は革命的な考え方だ。消費社会においては、満足であるというのは過激なことなのだ。自分に不足しているもののことではなく、自分がいかに豊かであるかを認識するのは、満たされない欲求を作り出すことによって繁栄する経済を弱体化させる。感謝の念は充足感を育てるが、経済の繁栄には欠乏感が必要なのだ。感謝のことばは、あなたはすでに必要なものすべてを持っているということを思い出させる。感謝の念があれば、満足感を得るために買い物に行こうとは思わない。満足感というのは買えるものではなく、贈り物であって、それは経済全体を根幹から揺るがす。地球にとっても人にとっても、それは良い薬になる。

(同書pp.146-147から抜粋)

感謝の念は充足感を育てるが、経済の繁栄には欠乏感が必要なのだ。

持続可能な社会に向けて、まっさきに取り組むべきは、感謝の気持ちを表現する、ということなのかもしれない。

選択の根拠

どうしてそれを選ぶのか、自分でその根拠がわからないまま選択を行なっていることは多いという自覚はずっとあった。特にものをつくる場面で。

いちばん身近なものでは、なぜそれを、そのようなかたちで写真に収めるのか?という問い。それはいつも自分につきまとっている。

最近読んだ、『あなたの脳のはなし』には、はっきりとこう書かかれている。

わたしたちはふつう自分の選択の根拠をわかっていない

私たちはふつう自分の選択の根拠をわかっていない。脳はつねに情報を周囲から引き出し、それを使って私たちの行動を導くのだが、気づかないうちに周囲の影響を受けていることが多い。「プライミング」と呼ばれる効果を例に取ろう。これはひとつのことが別のことの知覚に影響するものである。たとえば、温かい飲み物を持っている場合は家族との関係を好意的に表現し、冷たい飲み物を持っているときは、その関係についてやや好ましくない意見を述べる。なぜこんなことが起こるのか?心のなかの温かさを判断する脳のメカニズムが、物理的な温かさを判断するメカニズムと重なり合っているので、一方が他方に影響する。要するに、母親との関係ほど根本的なものについての意見が、温かいお茶を飲むか、それとも冷たいお茶を飲むかに、操られる可能性があるということだ。

(『あなたの脳のはなし』 デイヴィッド・イーグルマン著 大田直子訳 早川書房 2017 pp.111-112から抜粋)

ほかに、硬い椅子に座っているときのほうが、柔らかい椅子に座っているときよりもビジネスにおいて強硬な姿勢を示す、といった例も挙げられている。

 もうひとつの例として、自覚されない「潜在的自己中心性」の影響を考えよう。これは、自分を思い起こさせるものに引きつけられる特性のことだ。社会心理学者のブレット・ペラムのチームは、歯学部と法学部の卒業生の記録を分析して、デニースやデニスという名前の歯科医(デンティスト)、そしてローラやローレンスという名前の弁護士(ロイヤー)が、統計的に多すぎることを発見している。

(同書 p112より抜粋)

さらにたたみかけるようにこう続く。

心理学者のジョン・ジョーンズのチームは、ジョージア州とフロリダ州の婚姻記録を調べ、実際に名前のイニシャルが同じ夫婦が予想より多いことを発見した。つまり、ジェニーはジョエルと結婚し、アレックスはエイミーと結婚し、ドニーはデイジーと結婚する可能性が高い。この種の無意識の影響は小さいが数値的な裏付けのあるものだ。

 要点はこうだ。もしあなたがデニスやローラやジェニーに、なぜその職業やその配偶者を選んだのかと訊いたら、彼らは意識にある説明を話すだろう。しかしその説明には、最も重要な人生の選択に対して無意識がおよぼす力は含まれていない。

(同書 pp.112-113より抜粋)

これほどまでに、無自覚に環境の影響を受けているのだとしたら、時間をかけて見つけた合理的に思える根拠も、疑わざるを得ない。

想像以上に「わかっていない」ことがわかって、少し恐ろしくなった。

音楽的に

先日訪れた展覧会で、展示構成がプログラミングのように構築されている印象を受けたのをきっかけに、ひとはどんなモデルで展示構成を考えるのだろうということに興味を持つようになった。

わたしの場合は、音楽的にとらえる傾向があるように思う。

2015年に札幌でペア作品を展示した際、それを表現するのに「主題と変奏」というフレーズが頭に浮かんだ。A/Bのような比較としてとらえられるペア作品ではあったが、2点を同時に視野に入れることはできないので、時間の流れを含んだ「主題と変奏」という表現はしっくりきた。同時に、そういう音楽的な表現がふと思い浮かんだことに、自分でも驚いた。

そう考えると、写真が横に並んでいく作品の構造はそのまま、矩形のユニットが横に並ぶ楽譜をなぞらえているようにも思え、幼少からのピアノレッスンをはじめとする20年余の音楽の経験は、意外なかたちで自分の中に深く根を下ろしているのかもしれないと思うようになった。

展示に限らず、何か構成を考える際に、主旋律、副旋律、転調、インヴェンションの1声、2声、3声の複雑な交錯といった音楽的な構造を、むしろ意図的に援用するのは面白いかもしれない、と思う。

視線、羞恥、欲望

松本卓也さんの『享楽社会論: 現代ラカン派の展開』(人文書院 2018)の第6章2節 視線と羞恥の構造に、とてもおもしろい記述を見つけた。

“視線が恥(羞恥)を生み出すメカニズムは、一体どのようなものだろうか。視線は、どのように恥ずかしさを生み出すのだろうか。”という書き出しではじまるこの節は、まなざしについての示唆に富んでいる。

なかでも、水着の女性のグラビアを見るときに感じない恥ずかしさを、実際に水着の女性が目の前にいると「目のやり場に困る」と恥ずかしさを感じるのはなぜかという問いから導かれる以下の論考がおもしろい。

水着の女性を「見る」ことそれ自体が恥ずかしいのではない。また、見ることによってその女性を「知る」ことが恥ずかしいのでもない。むしろ、その女性を見る際に、自分のことが知られてしまうのが恥ずかしいのである。女性の身体のどこを見るかによって私たちの欲望が知られてしまうこと。つまり、自分の視線が水着の女性を見ることによって、自分の欲望を知られてしまうことが恥ずかしいのである。それゆえ、「見ること=知ること」という等式を恥ずかしさのメカニズムとして考えるならば、その場合「知る」という行為の目的語は相手ではなくて私たち自身である。(「私が他者を知る」のではなく、「私が他者によって知られる」)という主客の逆転があることによく注意しておかなければならない。

(同書 pp.182-183から抜粋 *太字は本文の傍点箇所です)

その先には、カメラマンについての言及も続く。

(前略)さきに、水着の女性のグラビアを見ることは、見ている側に恥ずかしさを生じさせない、と述べた。窃視症は、これとよく似ている。というのは、窃視症者自身は壁を一枚隔てたところに隠れており、自分のことが相手に知られることがないからである。これは、写真の基本的な構造ともよく似ている。カメラマンは、カメラを用いて「壁」をつくり、被写体を含む外界から隔離されることができるからである。それゆえ、窃視症者やカメラマンには恥ずかしさは生じないのである。

(同書 pp.188から抜粋)

さらに、もう少しだけ抜きだすと、

(前略)カメラマンは、自分と被写体とのあいだにカメラという「壁」を挟むことによって、安全な位置を確保している。グラビアの水着女性が私たちを非難してこないのと同じように、カメラマンも、カメラという「壁」の向こうから攻撃されることはない。覗き魔が隠れる「壁」と同じように、カメラがきわめて安全な位置を提供してくれるのである。(後略)

(同書 pp.188から抜粋)

窃視症との関連でカメラが引き合いに出されたことに少し戸惑いを覚えたが、よくよく考えてみると、撮影対象の中にひとが入っている場面では、たしかに「覗いている」ような気もちになることがある。作品制作においては、あいだに川を挟んでいることもあって、被写体(に含まれている人物)からコミュニケーションをとられる可能性はないし、そもそも被写体に撮られていると悟られることも少ないが、それでも一方的にカメラを向けていることに対する疚しさはぬぐえない。とりわけ、二作目からはひとの営みが画面に写り込むことを意識しているので、なおのこと、疚しくないとは言い難い。

もう少し、写真に引き寄せて考えると、カメラという「壁」によって被写体に対しては隠される撮影者の欲望(見たい、見せたい)は、撮られた写真によって(どういう構図でどこにピントをあわせているかで)事後的に露呈する。しかし、中心的な対象をもたないフラットな画面構成であれば、撮影者の欲望はどこまでも隠し続けられる。

ここでわたしに突きつけられたのは、そういうフラットな画面構成を採用するその背景に、自分の欲望を知られたくないという強い恥の意識、あるいは自分の欲望を知られることに対する強い恐れがあるのではないか?という問いである。

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