アーカイブ

 

そもそも、話すのがうまくない。
いつも言いたいことを言えない、言い足りないもどかしさがあって、書くことでやっと出し切る。

そのための道具としてブログを書きはじめ、しだいに生活の中での気づきや、読んだ本の印象深いフレーズをメモ書きのように残すことが増えてゆき…

それでも、はじめた頃から、ひとりの人間が作品をつくりながら何を考えどう生きたか、制作のさなかに考えたことをその都度綴っておけば、登山で言うところの踏み跡のようなものとして、あとからこの道を進む誰かの役に立つかもしれないと思っていた。(そして実際に「読んでます」という若い作家の方が現れてびっくりした)

近年アクセスが安定しつつあるのに加え、自分自身を振り返るのにも役立つようになり、アーカイブとしての側面を少しずつ意識するようになっていった。

さらに今は、写真作品だけでなくこれらドキュメントも含めた営為を制作物としてとらえ直し、作品とドキュメントのつながりをもっと明確にしたいという欲も出てきた。

多くの作家にとってWEBは広報媒体のひとつかもしれないけれど、わたしはここをホームとする。
そう決めたので、これから少し時間をかけて手を入れようと思う。

もうひとつ。
20年近くひとつのプロジェクトに携わり、時間とともに作品に対する意味づけが自分の中で変遷するという経験をした。さらに20年続けたら、20年後のわたしは今とはまったく違う意味づけをするかもしれない。くわえて、人間は思っているよりずっとあやふやで一貫性に欠けているのではないか?という疑いもある。少なくとも自分のことは誰より自分がいちばんよく見えて〝いない〟。

つまり…定型フォーマットに則った「このコンセプトでこの作品をつくった」という作者の語りからこぼれ落ちるものが、わたしの意図を超えてここに残ることを期待している。

トレードオフ

 

コロナ禍の影響で、商業地では空きテナントが増え、そのガラスにシートや板があてがわれている光景が目立つようになった。いっぽう住宅地では、地方移住の需要を見込んだ旺盛な投資により集合住宅の建設ラッシュ。真新しいガラスがシートで覆われている光景をよく見かけるようになった。

ガラスに映る像を見ようとすると、木目やシートの皺といった支持体が介入する。
木目やシートそのものを見ようとすると、映り込む像に阻まれる。
拮抗やトレードオフといったことばが脳裏をよぎるが、トレードオフは今の社会状況をもっとも象徴することばだ、とも思う。

世界にやさしく触れる

 

三脚を立て水平垂直をあわせ、最後にファイダーを覗きながらピントリングを繊細にまわすとき、世界にやさしく触れているような感覚になる。そして、そのことで自分自身が癒やされたり救われたりしている部分が少なからずあるのかもしれない、とふと思った。なにかにそっと触れるとき、やさしさは触れる対象だけでなく自分にも向けられる。

ここで話題にしたいのは、前段のほう。
ほんのわずかでも回しすぎるとピントが甘くなるので、必然的にピントリングには繊細に触れざるをえないが、その手つきによって、事後的にやさしさが喚起されるのではないか?と。

ほぼ日刊イトイ新聞の糸井重里さんと池谷裕二さんの対談に、興味深い話がある。(https://www.1101.com/ikegaya2010/2010-10-06.html

イーと発音するときの口をしてマンガを読んだときのほうが、ウーと発音する口で読んだときよりマンガがより面白く感じられるという実験結果について。脳は外界から隔離された存在で、脳それ自体では外界のことはわからず、唯一身体を通じて理解をする。ここで言えば、脳に届くふたつの情報「笑顔をつくっているようだ(イーを発音する口)」と「マンガを読んでいる」から脳は「マンガがおもしろい」という合理的な解釈を導き出すのだそう。身体の状態が先にあって、脳はあとからそれに解釈をくわえる。

だとすれば、繊細な手つきによってやさしい気もちが喚起されることも、あり得ない話ではない。

もうひとつ。
日日是好日という映画で、「お茶はまず『形』から。先に『形』を作っておいて、その入れ物に後から『心』が入るものなのよ。」という台詞があった。ふるまいが先にあって、心は後からついてくる。そのことを、先人たちはよく知っていたのかもしれない。

画像スクロール用サンプルパッケージ

 

おかげさまで、オンライン展覧会 “On Your Side” は、多くの方のご訪問をいただき、感謝しております。
会期も残りわずかとなりましたので、まだの方は、下記URLにてご覧いただけると、たいへんうれしく思います。

https://somedalisa.net/exh2020/

さて、本展の作品表示のためにつくった画像スクロールプログラムのサンプルパッケージを用意しました。下のボタンよりダウンロードが可能です。

きわめてニッチな用途とは思いますが、必要な方はご利用ください。
MITライセンスにて配布しております。

sample.zip

ありのまま

 

フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命』に、もうひとつ気になった箇所がある。

望遠鏡と顕微鏡の発明によって、今まで肉眼で見ることのできなかったものが見られるようになり、人々は「見えない世界がある」ことを知った。もちろん、それが周知され受け容れられるまでにはさまざまな葛藤があったが、もうひとつ、この時代に生まれた新しい考え方があった。そのことについて記しておきたい。

当時の自然哲学者たちが、それまで見たこともないまったく新しいものを見たとき、ある困難に直面した。具体的な事例が紹介されている箇所をいくつか抜き出してみよう。

月の表面に見える斑点はクレーターと山の影だとガリレオが見抜くことができたのは、遠近法を学んでいたからだけではない。コペルニクスの地動説を支持していたからでもあったのだ。古代から続くアリストテレス的な宇宙観では、地球は天界の中心にあり、地球を周回するすべての天体は発光性の〈アイテール(エーテル)〉で構成されているとしていた。この宇宙観を頭から信じているものの眼には月の表面は真っ平で輝いているように見え、クレーターや山があるようには見ることができなかった。見えているのに見えてないと考えるようにしているわけではない。先入観が視覚に影響を及ぼし、本当にそう見えていなかったのだ。彼らは輝く月の表面にある斑点が雲に見え、もしくは質の悪いレンズのせいでまだらに見えると考えてしまう。しかしそんな古い考え方に囚われずに、地球も月も太陽を周回する天体だとするコペルニクスの説を受け入れると、月にも地球のように山があったりクレーターがあったりしてもおかしくないと思えるようになるのだ。

フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命』(ローラ・J・スナイダー著 黒木章人訳 原書房 2019 p171より抜粋)

血液のなかに赤血球を発見したとき、実際には真ん中が窪んだのっぺりしたかたちなのにもかかわらず、彼の眼には球形に見えた。そう見えたのはファン・レーウェンフックだけではなかった。この時代に赤血球を観察したものは、誰もがみな球形だと述べた。ヤン・スワンメルダムもミュッセンブルーク兄弟も王立協会のフェローたちも、全員が赤血球は球状だと言った。みんながみんな、そんなかたちのはずだと思っていたからだ。(同書 pp416-417より抜粋)

一六七八年に哲学者のジョン・ロックと共にイヌの精子の観察をしていたときのことだ。ロックには、精子の尻尾がなかなか見えなかった。「私には、どうしてもきわめて小さなビーズ球にしか見えなかった」ロックはそう告白している。ファン・レーウェンフックは、自分もあらゆる物質の構成要素がどうしても球状に見えていたことを思い出した。ロバート・ボイルたちが唱えていた、すべての物質は粒子によってできているという〈粒子仮説〉に囚われていたからだ。ファン・レーウェンフックは、何もかもが丸く見えてしまう自分の心と闘い、ようやく精子の尻尾が見えるようになった。(同書 p417より抜粋)

まったく新しいものを見るというのは、そうたやすいことではなかったのだ。

 一七世紀の自然哲学者たちは自然界をありのままに見ようとした。これまで信じてきた、自分の支持する説やそれ以外の説には頼ろうとはしなかった。しかし新たな光学機器による観察がどれほど難しくても、観察して見えたものが強固な信念や説に反するものだとしても、見えたそのままに見るためには心の鍛錬が必要だった。それが大きな問題だということを理解していたガリレオは「実際の眼だけでなく心の眼もつかって見なければならない」と述べている。先入観や思い込み、そして願望すらも、実際に眼に見えているものではなく、何か別のものを見せてしまうことを理解しなければならないのだ。(同書 p172より抜粋)

つまり、この時代の自然哲学者たちは「ものの見方は固定観念に影響される」ということを理解しなければならなかった。そして、これこそがまさにこの時代に生まれた考え方だという。新しい世界が(外に)ひらけたことにより、見る側のもののとらえ方(内側)の瑕疵が浮かび上がったというのは興味深い。

それはさておき、この箇所を読んだとき、既視感(既読感?)のようなものを覚えた。似たようなフレーズをどこかで…。そう、モダニズム写真の倫理だ。

エヴァンスに象徴されるモダニズム写真の倫理とは、人間的な意味や表象のフィルターを通さず、カメラ・アイによって対象物自体をじかにありのままに、クリアに撮ること、つまり透明性、純粋性、裸の倫理である。それは、人間の色眼鏡を超えた、汚れなき曇りなきカメラ・アイによってのみ到達可能な「ありのままの世界」、社会の価値や表象の体系の彼方に存在する「ありのまま」のリアリティに対する倫理なのだ。

プルラモン―単数にして複数の存在』(清水穰著 現代思潮新社 2011 p48より抜粋)

「ありのまま」にたどりつけない原因(眼を曇らせるもの)を、片方は先入観や固定観念、願望に、片方は意味や表象のフィルターに求め、それを克服する方法を、片方は心の鍛錬に、片方はカメラ・アイに求めている。まるで相似形のようではないか。

正直なところ、モダニズム写真の倫理を実感として理解するのは難しかった。なんで人間が見ることをそこまで否定するのか? どうしてそんなにカメラ・アイに期待するのか? わたしにはさっぱりわからなかった。けれど、17世紀のパラダイムシフトによってもたらされた考え方や、当時の経験がその下地にあるとすれば、少し理解の方途が見えた気がする。

しつこく抜粋したように、17世紀の自然哲学者たちは具体的な困難を経験していた。赤血球が球状にしか見えなかったり、精子の尻尾がなかなか見えなかったり…それらの困難を克服しようと「ありのまま」に見るための心のありようを模索した。その経緯はよく理解できる。では、モダニズム写真の倫理が生まれる背景にはどのような困難があったのか。何を克服しようとしたのか。

17世紀のパラダイムシフト

 

ついこのあいだ、不可視性について考えたことをまとめたあと、とてもおもしろい本に出会った。

フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命

フェルメールとレーウェンフックの二人の生涯を軸に、望遠鏡と顕微鏡の発明によってもたらされたパラダイムシフト、当時の人々の世界認識がドラスティックに変わるさまが丹念に描かれている。

これまで遠すぎて見えなかったもの、小さすぎて見えなかったものが望遠鏡と顕微鏡の発明によって見えるようになったときにはじめて、人々は「自分たちの肉眼では見えない世界がある」ことを知り、受け容れなければならなかった。

わたしたちは何の疑問も抱かず、新型コロナウイルスは(肉眼では見えないけれど)存在すると思っているけれど、それは決してあたりまえの認識ではなく、この17世紀のパラダイムシフトを通じて獲得したものである。

望遠鏡が見せてくれるはるか彼方の天界、顕微鏡が見せてくれる微小な生物、それ自体とても大きな発見ではあるが、何より大きい発見は「肉眼では見えない不可視の世界がある」とわかったことだという。

 顕微鏡と望遠鏡が幅広く受け入れられるために必要だったのは、その作用原理を説明する光学理論だけではなかった。むしろ、世界は見かけどおりではなく、我々の眼には見えない隠された部分があるということを積極的に受け容れる姿勢のほうが重要だった。肉眼で観測するさまざまな現象の背後には不可視の世界があり、人間の眼に見えない部分にこそ目に目に見える自然現象の原因があることを理解しなければならなかった。この時代は〝世界は見かけ通りのものではない〟という認識が急速な勢いで広まった時期と見ることができる。

フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命』(ローラ・J・スナイダー著 黒木章人訳 原書房 2019 p24より抜粋)

この「不可視の世界がある」という17世紀の発見がなければ、見えないものがあるという構造を前提とする無意識は発見されなかったかもしれない。21世紀のいま、わたしたちは実際に道具で観察できるケースだけでなく、無意識のように道具で観察できないケースであっても、「不可視の世界がある」ことを受け容れている。そこがとても興味深い。

近すぎて見慣れない山。はるか遠くの見慣れた山。

 

昨年5月に記したメモより。

先日実家で窓の外を眺めたとき、はるか遠くに見える山が紀州山地だということにはじめて気がついた。

神戸の海と山に挟まれたほんなわずかな平地で、しぜん太陽の射す海側に気もちが向くのと、うしろの山(六甲山系)はまなざすには近すぎるのとで、日常生活では、六甲山系よりもむしろ、遠く紀州の山影のほうが視界に入りやすい。

ほぼその上で生活しているにもかかわらず、視界に入らない六甲山系に感じる馴染み深さはどこか抽象的。いっぽう、訪れたことすらない紀州の山々に感じる馴染み深さは日々の生活で見慣れている分、現実的。

近すぎて見慣れない山と、はるか遠くの見慣れた山。
物理的距離と心理的距離は必ずしも一致しないのかもしれない。ひとが土地ととりむすぶ関係は、案外複雑だ。

さらに言えば、六甲山系をあたりまえのように「うしろ」と認識しているのもふしぎなことだ。海沿いの埋立地のあたりから六甲山系を眺めるときは、ただ山を眺めているだけなのに、「うしろをふりかえる」気もちになっている。

京都にあっては、必ずしも北が「うしろ」ではないし、特定の方角の山を「ふりかえる」と感じたことは一度もない。

5月の空

 

空気が乾いた季節の夕暮れどき、ほんのり紅を点したような空が好きだなぁと思って撮り始めたのが4月の中頃。それからしばらく経って、ほぼ定点で撮れるかもしれないと思い、夕暮れどきにベランダの決まった位置に立ち、空にスマホをかざすようになりました(これは今も続けている)。

緊急事態宣言中に見上げた空(ほぼ定点)

「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは…」のくだりを思い出し、何度か早朝にも撮ってはみたものの、び、微妙……清少納言先生の推しはきっと東の空。これは西の空でした。

緊急事態宣言のなか、生活を変えることを余儀なくされたけれど、そんな中にあっても、あたたかくなれば蕾をふくらませる花々に、朝な夕な美しいグラデーションに染まる空に、わたしは少なからず救われた気もちになっていました。ふだんと何らかわらないペースを保つものに、心強さを感じていたのかもしれません。

平時に戻るまでのそれぞれのままならない日常に、少しでも寄り添えますように。

隔たり

 

平時モードに戻る前に、もうひとつ書き残しておこうと思う。

「隔たり」ということばは、ふつう二者の空間的・時間的な距離を指す。それだけでなく、たとえ二者の距離が限りなく近くても、ガラスや壁のような遮蔽物が間にあるような場面でも「隔たり」ということばを使う。これらはまったく異なる状況のはずなのに同じことばを使う。そのことに興味を持った。

この二つの状況に共通点を見出すとすれば、距離や遮蔽物によって二者の接触が阻まれているということではないか?「隔たり」ということばのベースには「触れることができない」(接触不可能性)というチクッと心が痛む経験が横たわっているのではないだろうか?

かつて、そんなことを考えたことがある。(隔たり 2014.04.26)

奇しくも、新型コロナウイルスの感染防止対策として、日常生活ではソーシャルディスタンスを保つよう促され、公共施設や商店の窓口には薄い透明のシートが貼られるようになった。ぼんやり考えていたことが、突然、可視化されてしまった。

不可視性

 

近年、見えなさに関心を持っていて、つい「不可視性」ということばを使ってしまうこともあるが、けっこう意味の幅が広いことばなので、少し整理してみたいと思っていた。

ちょうどいい機会なので、「見えない/見えにくい」とはどういう状況かを、いちど整理してみようと思う。現時点で思いついたことを書き出しただけなので、あらためて分類し直したり、更新するかもしれない。「自分の近くにあるかどうかがわかる/わからない」という項目には、新型コロナの影響がモロに出ているが、現在の関心は少なからずそこにある。

  • 肉眼で視認できない

    • 知覚する方法がない
      そもそも、その対象を思いうかべることすらできない→考察できない
    • 知覚する方法がある

      • 道具を用いて
        自分の近くにあるかどうかがわからないケース
        ウイルス、細菌等、放射能、電波、電気等
      • 視覚以外の感覚で
        自分の近くにあるかどうかがわからないケース
        ホワイトアウト、ブラックアウトなど、手探りの状態
        自分の近くにあるかどうかがわかるケース
        花粉、湿度
      • 現象を通じて
        現象と対象の関係を知っている
        運動、熱、光→電気
        風→空気
  • 不完全だが肉眼で視認できる

    • 対象を特定できない
      暗すぎる、明るすぎる、速すぎる状況など
    • 対象を特定できるが正確に認識できない
      反射と透過の像が混在、半透明のフィルターを介する状況など

新型コロナウイルスの感染拡大を機に、なぜ、見えないことがそんなに不安をもたらすのかを考えていたけれど、こうやって例を挙げてみると、日常生活の中に「見えないもの」はけっこう沢山ある。にもかかわらず、空気や電気に対して不安にはならない。不安と結びつくのは「自分に危害をもたらしうるもの」と「見えない」が組み合わさったときだ。

そして、ひとが「見えない」というとき、その前段には、その対象が存在することを知っている。まったく意識にものぼらないものに対して「見えない」という自覚は芽生えない。肉眼で見る以外の方法で知覚されうるものや、伝え聞いて存在を知っているものにしか「見えない」という経験は成り立たない。それがわかったのは大きな収穫かもしれない。

  1. 「見えないけれどある」ことを知っている
  2. (吹雪や霧など、状況のせいで)本来見えるべきものが見えない

これらのように、「見えない」ことを自覚するためには、前提となる条件がある。

いちばん厄介なのは、見えているつもり。見えないことに気づかないこと。「見えない」が見えないことかもしれない。

冬がおかしい。

 

今朝ようやく、はつゆきらしきものが舞うのを見た。
来週末、バレンタインの京都は最高気温21度の予想。

冬がおかしい。

近年、札幌を契機にサンクトペテルブルク、オタワと、都市の雪景を撮り続けているが、 そこには、雪をとおして風景を見る、不可視性云々、といった関心とは別に、

もしかしたら、これからだんだん雪が降らなくなるかもしれない。
雪で覆われた都市は、失われた風景になるかもしれない。
という切迫感がある。

もちろん、そんな状況は全力で回避すべきだと思っているが、すでに近年の京都で雪景を撮るチャンスはほとんどない。
思ったよりもずっと早く、失われつつあるのかもしれない。

なだらかに

 

写真の下部ではブツブツのついたシートを見ているはずが、上部に向かうにつれなだらかに、意識はガラスに反射する風景のほうに向き、シートそのものからは後退する。映像の支持体になると、ものの質感や存在感を感じられにくくなるのだろうか?

なだらかに

夜、車窓から外を見ようと思っても、光の反射が邪魔をしてなかなか外を見ることができない。幼いころに経験したそういうもどかしさに少し似ているかもしれない。

見ようとしてもなかなか見えない。

 

部屋の少しふかいところに陽が射し込むと、
わたしの肩でチリチリと、ジャカランダの影が踊る。

そう。踊るの。
揺れるのでもなく、揺らぐのでもなく。

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