2年前「そんなの書けないよ」と思いながら、締め切りに追われて提出した修了論文。齟齬を抱えたまま人前に出してしまった文章。

自分の作品についてのテキストを求められ、久しぶりに修了論文を読み返して、あのときの齟齬が何だったのかを知る。

論文として成立させるために削った部分こそ、制作の肝。

最初から最終形態が見えていたわけではなくて、試行錯誤をしながら、その都度なにかを感じ、取捨選択を行ったはずなのに、論文としてまとめると、あたかも最初からコンセプトが決まってて、最終形態も見えてて、それに向かっていちばん合理的な方法でつくったかのような文章になる。

それってまったくの嘘やん。

いちばんリアルなのは、ドキュメントとして、ひとつひとつの試行で何を知り、その都度何を考え、どう最終形態に結びつけたか。それを時系列で丁寧に書くことなんだと思う。

批評家でも研究者でもない、制作者があえて4000字も書く意味ってそういうところにあるんじゃないかな。