光線や視線、網膜といった概念を編んでいる〈線〉と〈膜〉という比喩、それがわたしたちの感覚に、なにがしかのバイヤスをかけてきたのだろう。二つの異なるもののあいだを走る線(矢印のように物に向かう視線、もしく彼方からこちらにやってくる光線)としての視覚、そして網膜というスクリーンに映る「像」としての視覚風景。ここでは視覚が、まるで知覚する主体と知覚される対象とのあいだの、眼球という媒体ないしは衝立を介して起こる出来事であるかのようにとらえられている。見るものが見られるものから隔離されているのだ。接触も摩擦も圧迫も浸透もない、距離を置いた関係として、である。「見え」とはしかし、そうした遠隔作用のなかで生まれるものだろうか。

 考えてみれば、わたしたちがじっと頭部を固定して物を見るのは、顕微鏡をのぞくときくらいしかない。ほとんどのばあい、頚を回し、身体を動かしながら、わたしたちは物の「見え」にふれている。視覚とはつねに運動のなかに組み込まれているのであって、物を正確に見るというのも、カメラに三脚を装着して微動だにしないよう固定するということではなさそうだ。触れるということが、物との接触や衝突ではなく、まさぐりにゆくという身体の運動のなかで起こったように、見るということもまた、網膜への刺激の投影ではなく、何かに向かうという、環境への動的なかかわりゆきのなかで生まれると考えたほうがいいのではないか。

(『感覚の幽い風景』 鷲田 清一著 紀伊国屋書店 2006 より抜粋)

「見る」とはどういうことか。視覚のモデルに対する懐疑。自分があまりに無批判でいたことに少しドキッとする。

ひとは見ようとして見るし、聞こうとして聞く。
たしかにそれは、動的で能動的。

やってみよう。

今、見えるもの。自分の部屋。少し離れたところにある展覧会のパンフレット。色鮮やかなので目をその方向に落ち着けて「見る」。もうその瞬間には、タイトルの文字をなぞっていて、さらにより細かい字を読もうと目を細める。また、少し視野を広げて、全体を見る。それから引用されている絵に目を移し、その裏に隠れている紙は何だろうと角度を変える…いざ「見る」となると、ひとところに留まることなく関心は移ろい続ける。なにか考えごとをしてぼうっとしていない限り、たしかに「見る」は動的だ。

展示現場での鑑賞者の「見る」をどう設計するかということに、以前から興味がある。考えるべきなのは、この方向かもしれない。