母のところから拝借して寝しなに読んでいた『日本の文脈』(内田樹 中沢新一著 角川書店 2012)。サルトルとレヴィ=ストロースを比較した話の中で、少し気になる箇所があったので抜き出しておく。

 (前略)レヴィ=ストロースの場合、まったく方向が違う。外へ出て行くんですね。自分の手持ちの理論や学説で説明できるものには興味がない。自分の理論で説明できないことに惹きつけられる。そこに自分の理論を適用するためじゃなくて、自分の理論を書き換えるために外部に向かう。植民地主義的に適用範囲を広げて行くタイプの知性じゃなくて、自分自身の足元を揺るがすような「未知のもの」に魅了される。(p152から抜粋)

二つの点で気になっていて、ひとつめは、外部との関わり方において、植民地主義的でない関係があるとすれば、どういう可能性が考えられるだろうか?という点において。

もうひとつは、まったくレヴィ=ストロースの話とは関係がないけれど、根本的にカメラを持って出かけるときは、自分の設定している思考の枠組みを揺さぶる何かに出会いたいと思って出かけているのだということを、あらためて確認した。

さすがに作品に落とし込む段階では、先にある程度枠組みをつくって、そこから被写体の条件を割り出して、その枠組みにおさめなければ成立しないのだけれど、それ以外では、それまでのことがすべてひっくり返されるような未知のもの、未知の光景に出会うために出かけているのだ。

気がつくと、カタログのようにある適用範囲内でバリエーションを集める作業に終始しているときもあって、そういうときはすごくつまんないなぁ…と思うことがある。そうではなくて、自分の写真や思考を書き換えるために外に出る、と自覚するとすっきりした。

また少し話がずれるけれど、ひととの出会いも同じだと思う。最近流行のルームシェア。わたしも学生の頃にルームシェアをしていたけれど、その友人の影響をとても受けたと思う。自分では当たり前だと思っていたことが当たり前ではないことを知って戸惑うこともあったけれど、自分のいろんなことが書き換えられた。それはまったく想定外のことだったけれど、自分が書き換えられるというのはものすごい快感だった。

それからは、ひとと出会ったり、何かを一緒にする醍醐味って、自分が書き換えられるような経験をすることにあるのではないかと思うようになった。だから、知り合う相手に最初からいろいろ条件をつけるのとか、つまんないと思うのだけど…。