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朝顔考

祖父が遺した朝顔の種を播いたのは一昨年のこと。
その花が種を落としていたのか、今年は播いたつもりのない鉢から二株の朝顔が芽を出した。

せっかくだからと鉢をわけて育ててみたら、片方は葉っぱも花も強く縮れた畸形だった。
しばらくのあいだ、畸形の株をかばうような心もちで水をやっていたのだけれど、ある朝、堂々と花を咲かせているのを見て、これがこの花の個性なんだと気がついた。

その発見はなんとも嬉しく、清々しさと開放感に溢れていた。ほんの少し自分の心がふくよかになった気もした。

つまりは、息苦しかったのだ。
正常や標準といった狭い範囲をくくり、そこから外れたものを排除したり、標準に近づけようとする社会の圧は日増しに強くなっている。その圧が恒常的であるがゆえに、気づきづらく、さらには、知らずしらず内面化してしまっていたのだろう。ずいぶん、無頓着になっていたものだ。

朝顔の花から学んだものは、大きい。


一昨年は、朝顔のつるを巻いて他者に寄りかかるありさまに、嫌悪感を隠せなかった。
できることなら、向日葵のように己の力ですっくと立っていたい、と思ったものだ。

でも今夏の台風で、強い風にあおられるなか、朝顔だけがまったく動じない様を見て、
他者の支えを前提として生きるしなやかな強さを朝顔に見出した。

平時だけを考えれば、向日葵の生き方でもいいのかもしれない。
けれど、有事を想定すれば、朝顔の生き方にも一理ある。

朝顔ひとつとっても、見える景色が変わることもあるのだと知った。

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