触れるというのはまさぐることだと、以前に書いた。触れるとは、身体の表面が物に接触するという偶発的な出来事を意味するのではなく、対象への能動的な関心をもって、触れるか触れないかのぎりぎりのところで物をまるで触診するかのように、愛撫するかのように探る行為だといった。が、これはなにも触覚にかぎられることではなかったのだ。触診、聴診のみならず、見ることもまたすぐれて世界をまさぐるという行為なのだろう。

(『感覚の幽い風景』 鷲田清一著 紀伊国屋書店 2006 より抜粋)

「まさぐる」ということばがぴったりだと思った。
松江泰治氏の写真集『JP-22』。都市の見せる微細な表面を、わたしのまなざしはまさに「まさぐる」。潜るということばもどこかで聞いた気がする。細部にわけいるまなざし。そこから少し遠のいて全体を見るまなざし。細部に集中しているときは全体は見えていない。全体をまなざすときは、細部までは見られない。その視覚の不可能性や、往復運動はたしかに「潜る」行為に似ていると思った。

でも「まさぐる」もいい。
触覚的なニュアンスや、見る人の能動性をうまく表現している。
彼の写真はまさに、見るひとのまなざしが「まさぐる」ことを誘う。

わたしはそこがおもしろいと思う。