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満足であるというのは過激なこと

先日、@CKUAで観たジェン・ボー(鄭波)の展覧会で、参考書籍として紹介されていた本の中に、好きな装丁のものがあり、後日、あらためて探し求めた。

植物と叡智の守り人

ネイティブアメリカンの植物学者が描くうつくしい世界観に触れ、しばらくこちらの世界に戻ってきたくなくなってしまった。それも、ただうつくしいのではなく、現代社会に対する鋭い洞察がいたるところにちりばめられている。心に刺さったところをいくつか書き留めておこうと思う。まずは、経済について。

ネイティブアメリカンの社会では、感謝、とりわけ地球や大地に対する感謝が重視されるが、資本主義社会でドライブのかかった欲望に歯止めをかける力を、著者はこの感謝という行為に見出している。

以下の記述は、著者が夢で見た光景ではあるが、心理描写が興味深い。

つい先日、その市が、鮮やかな質感とともに私の夢に出てきた。私はいつものように腕に籠を抱えて売店を縫って歩き、エディータの店に採りたてのコリアンダーを買いに行く。楽しくおしゃべりをした後、お金を払おうとするとエディータは、要らない、と手を振り、軽く私の腕を叩いて立ち去らせようとする。贈り物よ、と彼女が言う。どうもありがとう、と私は答える。お気に入りのパン屋では、丸いパンの上に清潔な布をかけてある。私はパンをいくつか選んで財布を開けるが、ここの店主もまた、まるでお金を払おうとするのが失礼なことでもあるかのように、要らない、と身ぶりで示す。私は困惑して周りを見回すーー見慣れた市場のはずなのに、様子がガラリと変わっている。私だけではなく、誰もお金を払っていないのだ。私はすっかり嬉しくなって、市場を足取り軽く歩き回る。ここで使える通貨は感謝だけなのだ。すべては贈り物なのである。まるで野原でイチゴを摘んでいるみたいだーー行商人たちは、地球からの贈り物を次の人に手渡す仲介者にすぎないのである。

わたしは自分の籠の中身を眺める。ズッキーニが二本、玉ねぎ一個、トマト、パン、それにコリアンダー。籠はまだ半分空だが、一杯になったみたいに感じる。必要なものは全部揃っている。私はチーズを売っている店に目をやり、買おうかな、と考えるが、買うのではなくてもらうことになることを考え、やっぱりやめることにする。おかしなものだーー市場にあるものが全部、単にとても安いだけだったら、ふだん私はできるだけたくさんのものを買っただろう。でも全部が贈り物となったら、自制心が働いたのだ。必要以上のものは受け取りたくない。そして、明日私は何をお礼に持ってこようかと考え始めた。

もちろん、その夢は消えてしまったが、とても嬉しかった気持ちと自制心は消えなかった。それ以来何度もそのことを考え、私はそのとき、市場経済から贈与経済へ、私有財産から共有財産への転換を目の当たりにしたのだということが今ではわかる。そしてその転換によって私たちの関係は、手に入れた食べ物と同じくらい滋養たっぷりなものになった。(後略)

(『植物と叡智の守り人』 ロビン・ウォール・キマラー著 三木直子訳 築地書館 2018 pp.47-48から抜粋)

市場にあるものが全部、単にとても安いだけだったら、ふだん私はできるだけたくさんのものを買っただろう。でも全部が贈り物となったら、自制心が働いたのだ。必要以上のものは受け取りたくない。

贈与経済では、過剰な欲望は抑止される。これは、大事なポイントではないだろうか。

さらに、「感謝のことば」あるいは「すべてのものに先立つ言葉」として古くからネイティブアメリカンに伝わる慣習を紹介する章では、以下のように記されている。

感謝のことばを聞いていると、否応なく豊かな気持ちになる。それに、感謝の気持ちを表現するというのは素朴な行為に見えるかもしれないが、それは実は革命的な考え方だ。消費社会においては、満足であるというのは過激なことなのだ。自分に不足しているもののことではなく、自分がいかに豊かであるかを認識するのは、満たされない欲求を作り出すことによって繁栄する経済を弱体化させる。感謝の念は充足感を育てるが、経済の繁栄には欠乏感が必要なのだ。感謝のことばは、あなたはすでに必要なものすべてを持っているということを思い出させる。感謝の念があれば、満足感を得るために買い物に行こうとは思わない。満足感というのは買えるものではなく、贈り物であって、それは経済全体を根幹から揺るがす。地球にとっても人にとっても、それは良い薬になる。

(同書pp.146-147から抜粋)

感謝の念は充足感を育てるが、経済の繁栄には欠乏感が必要なのだ。

持続可能な社会に向けて、まっさきに取り組むべきは、感謝の気持ちを表現する、ということなのかもしれない。

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