中心からの偏差を測るような、
そういう無益な作業をぐるぐるぐるぐる、繰り返して、
まともに世界と関わっていたのは、
カメラを構えているときだけだったのかもしれない。

3年も先送りしていたことが、ある日突然、
他人によって、とてもシンプルに片付けられた。

そして、わたしは、
空っぽになった、
のではなくて、空っぽだった、
ことに気がつく。

不思議と少し気持ちは軽くなっている。
自分をいちばん縛っていたものは、
他ならぬ己の執着だったりするのだな、と、静かに思う。

思い出さずに済むのなら済ませたい映像を、
それでも擦り切れるくらい反芻するのは、
忘れるための機構が正常に働いているからなのかもしれない。

もう同じシーンを100回くらい見た。

昨晩、ノーベル文学賞の発表を受けて、
久しぶりにル・クレジオの『歌の祭り』をひもといてみた。

なぜなら、あるものは、失くすことによってはじめて得られるのだから。

その一節が、風のように、さらっとわたしのこころを撫ぜた。