心をこめる

その日は、保育の仕事をしている友人と話をしていた。

休日に仕事を持ち帰ったという話をきいて、家に持ち帰らなければならないほど仕事量が多いのかと問うたところ、
新学期の帳面に子どもたちの名前を書くの、バタバタしている仕事中ではなくて、心をこめて書きたいから。という返事がかえってきた。

心をこめて名前を書く

という話が、おそろしく新鮮に聞こえるくらい、心をこめて何かをする、ということからわたしは遠ざかっていた。

彼女曰く、テキパキと合理的に仕事をするよりも、心をこめて名前を書くようなことのほうが、むしろ自分にできることなのではないか。と。

そのとき、わたしは虚をつかれた感じだったと思う。
わたしの仕事観のなかには、テキパキ合理的というチャンネルはあったけれど、ゆっくり心をこめて何かをするというチャンネルは、存在すらしていなかった。

少し話はそれるけれど、視覚表現に携わるなかで感じてきたことのひとつに、「ひとは、言語化されたり明示された内容よりも、その表現のもつニュアンスのほうに、大きく影響を受けるのではないか」というのがある。
たとえば、ひとが話をしていることばやその内容よりも、間の置きかたや声色、トーンといったもののほうから、より多くの影響を受けるようなこと。

そうであればなおさら、表現する立場のひとが「心をこめる」ことはとても重要だ。
受けとるひとは、心のこもっているものと、そうでないものを、とても敏感にかぎわける。

なのに、わたしはずっとそれをないがしろにしてきた。

心をこめる、ということをもう一度、考え直したい。

単語帳をのぞいてみる

毎日コツコツ英語の勉強をしていると言いはっているので、ちょっと母の単語帳をのぞいてみる。

skip out…夜逃げする
become a beer belly…ビール腹になる

…この単語、いつ使う気なんやろか。

メッセージのコンテンツではなく送り方を聴いている

最近また‘身体’に関心が戻ってきて、パラパラと読んでいた本のなかに、少し苦いフレーズを見つけた。

(前略)詩として成立する言葉と成立しない言葉がある。その違いというのは直感的にしか言えないことなんだけれど、詩にならない言葉というのは「うるさい」と谷川さんは言うんです。「わたしが、わたしが」と言い立てる詩は、どんなに切実であっても、うるさい。たった三行でも、「わたしが、わたしが」と言いつのる詩はうるさい。逆に、言葉が、詩人の「わたし」から離れて、自立している言葉というのは、言葉自身が静かで、響きがよいということを言ってらした。
 今の若い人たちが、単一の「自分らしさ」をあらゆる場で押し出すというのは、谷川俊太郎的に言うと「うるさい」ということですね。そのうるささ、その不愉快さというのは「礼儀正しくない」とか「敬意がない」というようなレベルのことではなくて、「わたしが語る」ということそのものの不快さなんです。
(『身体の言い分』内田樹 池上六朗著 毎日新聞社 2005 p24・25より抜粋)

後半の若いひとたちが…のくだりでイメージされているのは、キムタクが扮する若者役に代表されるような若者像だと、ほかの著書で読んだ記憶がある。たしかに、彼の役柄はいつもいつも鼻についた。だから話はよくわかる。それでも、不思議なことに、自分のことばかり話していても、それが鼻につくひとと、つかないひとがある。その違いはどういうことなんだろう。

 自分の目の前でしゃべっている人が、正直者か詐欺師かって必ずわかりますよね。わかるのは、結局、相手のメッセージを受信する時に「コンテンツ」を聴いているわけじゃない、ということです。何を聴いているのかというと、メッセージの「送り方」を聴いている。正直な人がまっすぐに語っている言葉は直接深く入ってくる。それは言葉の内容が理解できるできないとは別の次元の出来事なんですね。わからないけど、わかっちゃう。頭を使っているわけではないんです。もっとトータルな関わりですよね。
(同書 p83より抜粋)

メッセージのコンテンツではなく送り方を聴いている、というのは面白い。
なぜかこのひとの話は聞いてしまう、ということもあるし、
逆に、このひとの話すことばはまったく響いてこない、ということもある。

「わたし、わたし」というコンテンツでも、余裕なく切羽詰まった様子で話されるのと、本人自身が客観視できる程度に余裕を持って話されるのでは、受け手には違って聞こえてくるのかもしれない。大事なのはむしろメッセージの「送り方」のほうなのか。

きっと(芸術)作品においても、コンテンツだけでなく、作品の差し出し方まで、
観賞者にまるごと観られているのだろう。実際、視覚表現領域でもコンセプトを押しつけてくる作品は「うるさい」。

だから、ここらへんの話は、うかうか人ごととして読んでいられないのだ。

音を楽しむなんて意味はない

「そもそもmusicに音を楽しむなんて意味はないのよ。日本人が勝手に音という字と楽しむという字を充てただけで、楽しもうとなんてしなくていいの。」

中学生のころ、声楽の先生に言われたことを思い出した。
これから音楽の世界を志そうと思っている中学生にとっては、酷なことばに思えた。

でも、photograph(photo 光の graph 描かれたもの)に‘写真’ということばをあてがった際に前提とした「真を写す」という考え方が、そののちもたらした影響の大きさを考えると、ことば自体を疑ってみるというのも、悪くないのかもしれないと思う。

画像、という呼び方のほうがよっぽどシンプルだしね。

音で読む

電通のセミナーに出席。

いろいろおもしろい話が聞けたのだけれど、ひとつ印象的だったのが、わかりやすい文章を書くには、文章を書いたら声を出して読んでみる、ということ。

おおかたの日本人は、ものを読むときに、音にして認識するので、声を出して読んだときに、すらすらと読めない文章は、目で追いながら読んだとしても、読みにくいのだ、と。

ということで、いま、わたしはこの文章を、声を出しながら書いている。

ちょっと込み入ったことを書こうとしたら、途端に、ことばがぎこちなくなるときがある。
そういうときも、声を出して読んでみたら良いのだ、と思えば、少し気が楽になった。

お、なんだか口述筆記みたいになってきたぞ。

メモ

所有することは、ほとんど必然的に所有されることだ
ガブリエル・マルセル

荷物の間からメモが出てきた。
メモにしてはひどくマニアックなんだけど。

いま、このタイミングでひらりわたしの目前に現れたことに、なにか特別な意味があるのではないか、と、考えてしまう。2月の緊急レクチャーで、クリストが「所有できない作品形態」について説明していたことを思い出す。

所有によって制約を受けることがある。作品は自由でなければならない、と。

「ふんしつ」のふんは、イトヘンなんです。

申し訳なさそうに言われたものだから、
かえってこっちが申し訳ないきもちになる。

郵便局の窓口でのこと。

紛失の届出のところに粉失と書いて、
まったく間違いに気づかずに堂々と書類を提出したところ、
郵便局員さんに、やんわりと訂正されてしまった。

ことばには執着があるほうだから、
こんな間違いに気づかないなんて、はじめてのことだと思う。
(正確には、間違いに気づかなかったことに気づかされたのが「はじめて」だ)

ショックである。
書く能力が著しく低下している。

タイピングする分には全く不都合はないのだけれど、
いざペンを持って書く段になると、
適切な漢字が思い出せずにすこぶる不自由をするということに、
うすうす気がついてはいた。

でも、書き損じることはあっても、
書き損じたことに気がつかないほど、アホになっているとは思わなかった。

これは、能力の低下というより、ほとんど退化だ。

意識的に手でものを書くようにしておかないと、
ほんとうに、書く能力を“粉失”してしまうかもしれない。

だれかと、なにかと、競争するためなどでは、けっしてありえない。

昨日書いた『塩一トンの読書
』はエッセイ集、あるいは書評集のようではあるけれど、ところどころ、著者のしずかな社会批判が込められていて、それがあまりにしずかなので、見過ごしてしまわないように記しておこうと思う。

 バイリングアルがよいなどと、人間を便利な機械に見たてたがる、無責任な意見が横行しているが、ものを書く人間にとって、また、自分のアイデンティティーを大切にする人間にとって、ふたつの異なった国語、あるいは言語をもつことは、ひとつの解放であるにせよ、同時に、分身、あるいは異名をつくりたくなるほどの、重荷になることもあるのではないか。
(『塩一トンの読書』須賀敦子著 河出書房新社 2003 p40から抜粋)

これは、フェルナンド・ペソアという詩人について書かれた文章にさしはさまれていた。

在留外国人の子どもの教育支援に携わっている母から、母語ではないことばで教育を受けなければならない彼らの抱える困難を、折りにふれ聞いているから、この部分がいちばん気になった。

もちろん彼らの多くは「バイリングアルがよい」などという教育的配慮から、日本で教育を受けているわけではない。両親の仕事の都合でいたしかたなく、日本で教育を受けることになった者がほとんどだ。

母の話を聞いていて、あるいは、帰国子女である自分の経験と照らして、
彼らのその重荷を、教育者がどれだけ理解できているだろうか、と、
ときに思うことがある。そういうところと共鳴した。

あと、関川夏央さんの『砂のように眠る―むかし「戦後」という時代があった 』という本について書かれている文章の最後のほう。

 (中略)いったい、なにを忘れてきたのだろう、なにをないがしろにしてきたのだろうと、私たちは苦しい自問をくりかえしている。だが、答えは、たぶん、簡単にはみつからないだろう。強いていえば、この国では、手早い答えをみつけることが競争に勝つことだと、そんなくだらないことばかりに力を入れてきたのだから。
 人が生きるのは、答をみつけるためでもないし、だれかと、なにかと、競争するためなどでは、けっしてありえない。ひたすらそれぞれが信じる方向にむけて、じぶんを充実させる、そのことを、私たちは根本のところで忘れて走ってきたのではないだろうか。
(同書 p157から抜粋)

これにいたっては、もうわたしが書き添えることなんて何もないと思う。

ことばはいつも後から

なんだかいやな感じ、だとか、なじめない感じ、だとか、
そういう齟齬としてとらえられた感覚が、
ずいぶんあとになって、他人や自分のことばに輪郭づけられることが多い。

ことばはいつも後から追いついてくる。

最近やっとそういうことがわかりかけてきた。

ことばで輪郭づけられるまでの、居心地の悪さのようなものは、
勘違い、くらいのことばで簡単に片付けられるものかもしれない。

でも、ことばにならなくても、そういうもやっとした感覚は、
もやっとしたまま大事にとっておいたほうがいいのだ。

0.01とか0.00023くらいの、
ともすれば、端数や誤差として削られて0にされちゃうくらいの微細なズレの感覚は、
ことばに出会って増幅され、確たる差異として認識されうるものかもしれないし、
簡単に切り捨ててしまってはならない。そういうことを考えた。

なんとなく気持ちがわるい、とか、
なんとなく居心地がわるい、とか、
なんとなくなじめない、とか、
そういう気分にはならないにこしたことはないけれど、
そういのをなかったことにし続けると、
知らないあいだに大きくなにかを損ねてしまう、気がする。

感じていることに気づかないふりをする、なんてことは、
絶対にしないほうがいい。

身体で感じることをあなどってはならないし、
ほかでもない自分が感じるところを、もっと信用してやろうよ、と、
なぜかそう、強く思った。

時代がかわったのか、自分がかわったのか、

言葉づかいに違和感を感じることがある。

昔から気になっていたのは「家族サービス」。
たいせつな家族と一緒に過ごす時間を、サービスというビジネスのタームでしかとらえられないことが、なんとも寂しくていやだな、と思っていた。

そういう違和感に通じることが書いてあったので抜き出してみる。

 書店にはビジネスコーナーがあり、「MBAに学ぶ企業戦略」だとか「ブランドエクイティ戦略」だとか「マネジメント戦略」といった「戦略本」が平積みとなって所狭しと並んでいます。わたしはいつも、ここはどんな「戦場」なのかといいたくなります。
 いったい、いつからビジネスが「戦争」になったのでしょうか。わたしの経験からいっても、モノの交換から始まって高度消費資本主義の現在にいたるまでの「商取引」の原理からいっても、ビジネスはモノを媒介とする平和的なコミュニケーションであり、戦争のアナロジーで語れるようなものではないはずです。
(『反戦略的ビジネスのすすめ』平川克美著 洋泉社 より抜粋)

そういう好戦的な言葉づかいが蔓延することで、時代の風潮がつくりだされる、というようなことも書かれていた。

本屋さんに行ったときに、ビジネスコーナーで感じる「いやな雰囲気」だとか、ひとが、ビジネスのノウハウを語るときのその語り口に対する違和感だとか、そういったものの理由がわかった気がした。

戦略的に誰かを出し抜いても、そういう相手にはいずれ出し抜かれるし、結果として出し抜かれなかったとしても、出し抜かれるかもしれない、という不安や緊張のなかで競争するようにして仕事をするのは、必ずしも良いパフォーマンスを生むとは思えない。それよりは、協調して互いの利益を確保するほうが、長期的にはプラスとなるんじゃないの?ということは、漠然と感じていた。お客さんが相手でも、業者さんが相手でも、あるいは同業者が相手でも、それは同じことだと思う。

だから、そういう「刺すか刺されるか」みたいな殺伐とした雰囲気を、なんかしんどい、と感じていたところに、この本に出会って、少しほっとした。

戦争のアナロジーで語ることによって、ビジネスをもっとほかの枠組みでとらえる可能性が削がれている、というこの本の主張に、わたしは深く共感する。

こういうのはほんの一例で、メディアの、ひとの、言葉づかいに違和感を感じることが日増しに多くなっていってる。その多くが、そういう言葉をつかうことで、あえて、生きることを貧しくしているんじゃないか、そう感じるような言葉づかい。

はたして、時代がかわったのか、自分がかわったのか。

そういうことを伝えたかったのに

年をおうごとに、ことばのレパートリーは増えているはずなのに、いざとなると、ほんとうに伝えたいことを、まっすぐ伝えることが、どんどん、難しくなっていく。

ことばがうわすべりするのが、自分でもよくわかっていて、
つらくなって、さらにことばを重ねて、撃沈。

ほんとうは、すごく感謝していることとか、
その真摯な姿にこころをゆさぶられたこととか、
そういうことを伝えたかったのに。

人間はしばしば弱く、かつ間違っている。

内田樹さんのブログにあった、村上春樹のエルサレム賞の受賞スピーチ。
からだの芯にずっしりきた。

Between a high solid wall and a small egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg. Yes, no matter how right the wall may be, how wrong the egg, I will be standing with that egg.
「高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。そうです。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。」

このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。

たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。
こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。
彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。
しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。
経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。
そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。
それが「本態的に弱い」ということである。
村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。
それは政治学の用語や哲学の用語では語ることができない。
「物語」だけが、それをかろうじて語ることができる。
弱さは文学だけが扱うことのできる特権的な主題である。
そして、村上春樹は間違いなく人間の「本態的な弱さ」を、あらゆる作品で、執拗なまでに書き続けてきた作家である。
(内田樹の研究室 2009/2/18 「壁と卵」より抜粋)

自分のものであっても、他人のものであっても、「弱さ」によりそいたい。
そう思ってはきたが、

「たとえ間違っていても私は弱いものの側につく」
果たして自分は、ここまで言いきれるだろうか。

ことばが、乱れました。

昨日の挙式でのこと。

親族代表として挨拶をされた新郎の父が、挨拶のことばに詰まったときに、そうおっしゃった。

ことばが、乱れました。
こころが、ととのいません。

ゆっくりと、ひとこと、ひとこと、ていねいに紡ぎ出されることば。

思わずシャッターを押す手がとまった。
たったひとことに、ひっぱられた。

誰もがだいたい、こらえたり、誤摩化したり、あるいは、そのまま通り過ぎるところを、まっすぐ自分のこころのあり様を見つめ、そのままことばにされたことに、驚いた。

そして、新しく家族に迎えるお嫁さんを、「家族をあげて、いや、親族をあげて、お守りします。」とおっしゃるところにいたっては、他人の家族のことなのに、涙が出そうになった。

ひさしぶりに、こころの深いところにことばが触れた。

こんなにまっすぐ届くことばがあるんだな、と驚くのと同時に、
わたしたちが普段、どれだけことばをぞんざいに扱っているか、ということを身につまされもした。

きっと死ぬまで忘れることはないであろうそのことばは、
わたしの中で、今も疼くようにしてある。

なじむ、なじまない、

言葉が相手に届き、理解されるためには、まず相手の身体に「響く」必要がある。そして、言語における「響き」を担保するのは、さしあたり意味性よりはむしろ身体性なのである。(p63)

 作家的直観によって村上は「人の心に入り込む物語」と「入り込まない物語」の違いが、言葉の身体性に存することを見抜いている。「倍音」とは「耳には聴き取れないが、身体に入る」音のことである。倍音を響かせることばは、「何を語っているか」という意味性のレベルにおいてではなく、「どのように語っているか」というフィジカルなレベルにおいて、おそらくは聴き手に「響き」を伝えるのである。(p64)

 (中略)テクストを黙読しているときにも、私たちは「無声の声」で音読している。そして、「単音」しか出せないテクストと、「和音」を響かせているテクストの違いを聴き取っている。現に、同じような政治的主張を、同じような論拠で展開しているテクストなおに、こちらのテクストは「薄っぺら」で、こちらのテクストは「深い」という印象を与えることがある。「深い」言葉はどれほど簡単な主張を告げていても、確実に身体にしみこんでくる。(p77)
(いずれも『態度が悪くてすみません
』 内田樹著 角川書店 2006 より抜粋)

響くことば、響かないことば。
そういうの、すごくよくわかる。

最近は、いっときほど、自分のことばが響いてないな、と感じることも。そういうのは、文章の内容ではなくて、切迫感のようなものだと思う。ことばが、このわたしに向かって迫ってきているような感覚。

さて、他人の文体についてだけれど、わたしの場合、なじむ、なじまない、というのが極端で、文体になじめない、ことが多い。目新しい内容でおもしろいはずの文章が、その文体になじめないと、おもしろく読めなかったりする。

文体に限らず、わたしは、なにかと判断を、「なじむ、なじまない」という生理的な感覚にゆだねているところが大きい、と思う。

霊感はまったくないけれど、土地や建物に「いやな感じ」を受けることは多いし、なるべくそういう場所は避けて暮らしている。確かに、OL時代の社員寮は「いやな感じ」で充満していたし、そこに住んでいるときは、夜中に金縛りにあうことが多かった。(人生のなかで金縛りにあったのはその時期だけだ。)

良い「気」の土地と悪い「気」の土地がある、ということを、同じ内田樹さんが別の著書に記していた。

一見合理的な考え方や、世間の論調にも、なじめないことが多い。自分自身の身の処し方にすら、なじめないと感じることがある。

違和感や齟齬がたとえ言語化できなくても、「なじめない」と感じた事実を、見過ごしてはならないと思いはじめたのは、作品をつくるようになってからだ。そして、デザインを組み立てるとき、写真に関わるときこそ、いちばん「なじむ、なじまない」の感覚に判断をゆだねているのだと思う。

理屈では問題なくても、どうしても、自分のきもちが「なじめない」ときは、ダメなんだと思う。どんなに根拠がなくても。そうやって身体に判断をゆだね続けていると、だんだんとその判断は厳しくなる一方だし、「なじむ」の条件が厳しくなると、「なじまない」=不快なものは増大していく。

ことばにならない違和感やら齟齬やらが、増大し続けているのだから、それは決して幸せな作業ではない。そう思いながら、でも、その後もどりできない道を、ひたすら全力で進んでいる。

響くことばから、ずいぶん話がそれてしまった。

雪の音を聴いてみる。

「ほんとうに雪はしんしんと降るのか?」

耳を澄ませて雪の音を聴いてみる。

舞い降りる瞬間の音は、スチャッ、スチャッ。
少し雨まじりだから、湿った音がする。

きっともっと細かい雪でも、
いちばんリアルな音は顔やからだにふりかかる音だし、
雪の降るなかにあるひとにとって、雪の音は、もっと具体的。
しんしん、ではない。

あとから気づいたけれど、きらきらと星が輝く、のきらきらは擬態語。
ゆらゆら揺れるの、ゆらゆらも擬態語。
同じように、しんしんも、擬音語じゃなくて、擬態語。

きらきらは煌めき、ゆらゆらは揺れる、ということばからも類推されるけれど、
しんしん、はどこから来るんだろう。

ひとつ言えるのは、そんな上品な表現は、
窓から外の雪を眺めているひとにとっての音景なんじゃないかということ。

今日も帰り道、雪にふられたけれど、雪の最中にあったら、
擬態語だとしても、きっと、「しんしんと」は使わないなと思う。

さて、長くなったけれど、
最中にあるひとと、それを傍観するひととでは、
表現に差があるということを考えていたのです。
ひとがどのポジションに身を置いているかは、
その表現のなかで、あからさまに露呈する。

よくも、わるくも。