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下絵

 真っ暗な部屋に入ったときって、身体はガチガチになりますよね。本当はそういうときこそしなやかな身体であるべきなのに、真っ暗な部屋で、この先に何があるかわからないときに、人間は硬直してしまう。逆に、遠くまで見通せるときって、運動の自由度はすごく上がるでしょ。遠くまで見えると、肩の力を抜いて、すたすたと歩いていける。

 これから自分が進む道についてはっきりとした下絵があると、下絵とまったく違うことができるんですよ。下絵の縛りがあると自由になれる。逆に下絵がないと何にもできない。何が起こるかわからないから、いつもどぎまぎしていて、思いがけない、ほんのわずかな、砂粒のようなものに蹴つまずいて転んでしまう。

 ですから、「予祝」の「予祝」たるゆえんというのは、「予め」ということにあると思うんです。自分の身にこれから起こることに関してある種の予断を下してしまう。「私はこれからこうなる」と断定してしまう。これはすごく大事なことなんです。「『こうなる』と決めちゃうと、あとあと不自由になりませんか?」と訊かれることがありますけれど、そういうものじゃないんです。「私はこれからこうなる」と決めてしまうと、いくらでも変えられるのです。逆に「何が起きるかわからない」と思っていると、わけのわからないことが起きたときにコントロールできない。不思議なもので「決断」と「不決断」が同時に自分の中で行われている状態が一番生きる力が強くなっている。
(『現代人の祈り―呪いと祝い
』 釈徹宗 内田樹 名越康文 サンガ 2010 p61-62から抜粋)

選択の自由やあそび(機械などの少しの隙間のほうのあそび)の余地をと思って、いろいろ判断を留保してきたけれど、実はそれは自分で思い込んでいたほど前向きなものではなくて、むしろ、臆病になっていたのかもしれない。しばらくフリーランスを続けていたことで、つい「この先に何が起きるかわからない」と思って、計画を立てるのを避ける癖がついていたのだと思う。

逆に下絵がないと何にもできない。何が起こるかわからないから、いつもどぎまぎしていて、思いがけない、ほんのわずかな、砂粒のようなものに蹴つまずいて転んでしまう。

これは、ぐさっときたなぁ。
確かにそうなのだ。ほんのわずかな、砂粒のようなものに蹴つまずいて転んでしまう

旅などで、なりゆきまかせが、本当になりゆきまかせになってしまうと、実はあまり実りがない(大枠を決めておいた方がうまくいく)ことが多いというのは経験済み。いろいろ留保しておくよりも、多少、不確定要素があっても、決められることはさっさと決めてしまったほうが自分もすっきりする…とつい最近、身をもって学んだところだ。

とりあえず、ひとつ決めよう。
2013年は必ずヨーロッパに撮影に行く。

そして少し時間をかけて、今後の生活の下絵を描こう。