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老い

(前略)とりわけ、十九世紀に入って地球全体が世界資本主義の網の目にとらえられていく過程では、生産力の向上、技術革新、国際的規模での分業体系の深化、商品輸出や資本輸出のための市場争奪戦と帝国主義戦争の勃発、第二次大戦以降ではとくに西欧資本主義国間の貿易競争や商品開発競争の激化、といった現象が次から次へと展開し、この過程にまき込まれる個々人の日常生活は多忙をきわめるだけでなく、人生の浮沈も激しい。個人の人生は、経済という戦場で闘う戦士の人生のごときものであって、こういう個人に要求される資質は身体頑健、決断力、つねに生き生きしていることであり、つまるところ、若さである。経済戦争は老人ではやりぬけない。戦士は、つねに青年であり、せいぜい年をくってもかぎりなく青年的な壮年者でなくてはならない。経済戦争に耐えることのできないものは、たとえ若者であっても、老人であり、本物の老人がこの戦いで勝ちぬける見込みははじめから閉ざされている。近代や現代の経済生活では、老人であることはつねにマイナスの価値であり、老いの価値ははじめから極小値をとる。

 偏見をはなれていえば、幼年、青年、壮年、老年といったライフ・サイクルの各時期の間に価値の上下はない。本来は、それぞれの人生局面にはそれ固有の意義があるはずであり、子供と老人は社会のクズで、青年や壮年が社会の大黒柱だということはありえない。純粋に肉体的にみれば、若い者が強いのはあたり前だ。しかし肉体的に強いことと価値的に高いこととは、ストレートには結びつかない。にもかかわらず、近現代社会では、肉体的強さ=若さと価値観的プラス性とがストレートに結びついてしまった。それは個人の先入見とか、物の考え方の軽薄さといったものではない。近代市民社会とそれをドライブする資本主義市場経済が生みだしたイデオロギーこそ、老いの価値低下をひきおこしてきたし、今もそうである。
(『精神の政治学―作る精神とは何か (Fukutake Books)』今村仁司著 福武書店 1989 p141-142から抜粋)

もう20年以上も前に書かれた本。21年前だと、わたしは14歳か。両親がそろそろ「介護」に向き合わなければならなくなりはじめた頃に書かれたものだ。

それでも、この文章がそんなに古く感じられないのは、この20年の間に、老いを支える制度はそれなりに整いつつあっても、老いをとらえる人びとの意識それ自体は、それほど変わっていないからだと思う。

昔、撮影を依頼された商品が「アンチエイジング」を謳う化粧品だった。宣材写真を撮るのははじめてのことだったから、撮り方を教えてもらおうと思って頼んでいたひとに、まっこうから拒絶された。

肩こりの薬が肩こりに効くというのは単に効能を示すもの。
でも、アンチエイジングは、イデオロギーだ。
あなたはそれに加担するのですか?
と。

その時点では、まったく意味がわからなかった。
けれど、今ならよくわかる。