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ミディアム・支持体・平面性

 リアリズム的でイリュージョニズム的な芸術は、技巧を隠蔽するために技巧を用いてミディアムを隠してきた。モダニズムは、技巧を用いて芸術に注意を向けさせたのである。絵画のミディアムを構成している諸々の制限—平面的な表面、支持体の形体、顔料の特性—は、古大家たちによっては潜在的もしくは間接的にしか認識され得ない消極的な要因として取り扱われていた。モダニズムの絵画は、これら同じ制限を隠さずに認識されるべき積極的な要因だと見なすようになってきた。マネの絵画が最初のモダニズムの絵画になったのは、絵画がその上に描かれる表面を率直に宣言する、その効力によってであった。印象主義はマネに倣って、使用されている色彩がポットやチューブから出てきた現実の絵具でできているという事実に対して眼に疑念を抱かせないようにするために、下塗りや上塗りを公然と放棄したのだった。セザンヌは、ドローイングとデザインをキャンバスの矩形の形体により明確に合わせるために、真実らしさと正確さを犠牲にしたのだった。
 しかしながら、絵画芸術がモダニズムの下で自らを批判し限定づけていく過程で、最も基本的なものとして残ったのは、支持体に不可避の平面性を強調することであった。平面性だけが、その芸術にとって独自のものであり独占的なものだったのである。支持体を囲む形体は、演劇という芸術と分かち合う制限的条件もしくは規範であった。また色彩は、演劇と同じくらいに、彫刻とも分かち持っている規範もしくは手段であった。平面性、二次元性は、絵画が他の芸術と分かち合っていない唯一の条件だったので、それゆえモダニズムの絵画は、他には何もしなかったと言えるほど平面性へと向かったのである。
(『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳 勁草書房 2005 p64・p65より抜粋)

(前略)古大家の作品は一点の絵として見える以前に、その中に存在するものが見られる傾向にあるのだが、一方モダニズムの絵画は、まず最初に一点の絵として見えるのである。もちろんこれは、古大家のものであれモダニストのものであれ、どんな種類の絵画でも最高の見方なのだが、モダニズムはそれを唯一の必須の見方として強いるのであり、モダニズムがそうするのに成功することは自己-批判に成功することなのである。
(同書 p66・p67より抜粋)

(前略)古大家たちは、ひとがその中へと歩いて入っていく自分自身を想像し得るような空間のイリュージョンを作り出したが、一方モダニストが作り出すイリュージョンは、人がその中を覗き見ることしかできない、つもり、眼によってのみ通過することができるような空間のイリュージョンなのである。(同書 p70より抜粋)

このあたりのことは大学の講義で聞いていたはずなのに、すっかり記憶から抜けている(というよりきっと寝ていたんだろうな…)。もう一度、マネやセザンヌの作品をきちんと見たい。できれば、モダニズム以前の作品との比較で見たい。

これらはモダニズムの絵画についての記述だけれど、では写真において、ミディアム・支持体・平面性といったものに対して、(モダニズム如何にかかわらず)どういうアプローチがなされてきたのか。そして、モダニズムの下の写真とはどういったものであるのか。