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映画的なるもの

ホックニーの本を読んでから、また少し絵巻のことが気になって、高畑勲さんの『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』を取り寄せた。合点がいくところと、絵巻の技術の妙にうならせられるところがたくさん。

まずは、『信貴山縁起絵巻』で絵画としては奇妙な構図がなぜ採用されているのか?という箇所。

『信貴山縁起』の、鉢の外に導かれた倉は画面上端を大きくはみだして飛び、米俵の列は上端ぎりぎりに沿って遠ざかる(飛倉の巻)。また尼公は、空白に等しい霧の画面の下端を、見逃しそうな大きさで歩む(尼公の巻)。とくに尼公と米俵の列は、その場の主人公であるにもかかわらず、画面の隅に小さく押しやられているだけでなく、まるで紙の端でその一部が切断されたかのようだ。
これらの大胆な表現は、その箇所を抜き出してただの静止した「絵画」として鑑賞すれば、いかにも奇妙で不安定な構図に見えかねない。
しかし、絵巻を実際に繰り展げながら見進んでこれらの箇所に出会えば、なんの不自然さも感じないばかりか、この不安定な構図表現こそが、物語をありありと推進していく原動力となっていることに気づく。
なぜこのようなことが起こるのだろうか。
それは、ひとことで言えば、連続式絵巻が、アニメーション映画同様、絵画でありながら「絵画」ではなく、「映画」を先取りした「時間的視覚芸術」だからである。
映画では、人物が画面を出たり入ったりする(フレームアウト・フレームイン)。しばしば人や物を画面枠からはみださせ、背中から撮り、部分的に断ち切る。ときには空虚な空間を写しだす。映画では、たとえ画面の構図を安定させても、そのなかを出入りし動くモノ次第で、たちまちその安定は失われてしまう。
右に挙げた二例も、絵巻を「映画的なるもの」と考えれば、まず、モノ(尼公と米俵の列)抜きの構図があって、そこをモノが自由に行き来して構図の安定を破るのは当然なのである。
『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』高畑勲 徳間書店 1999 p51より抜粋)

ここで2点。

以前、展覧会を見られた方から、「一本のシネフィルムを見るようでした」という感想をいただいていたことを思い出した。
観者の意識を細部に誘うために「全体を一望できないかたちで展示して、見ているのが部分でしかないという認識を観者に持たせる」という目論みだったのが、制作者の意図を越えて、観者に「時間性」を感じさせた。展示をしてみてはじめて、時間性というキーワードがわたしの認識にのぼった。が、そもそも絵巻という形式それ自体が、時間性を持っているということを確認したのが一つ。

もうひとつは、絵巻から離れるけれど、ずっと以前に、動画を撮って再生と静止を繰り返して、被写体が見切れる構図は、写真の世界ではあまり見かけない構図やなぁと新鮮に感じ、実験を繰りかえしていたことを思い出した。(「見切れるフレーミング」)動画のコマを前後の脈絡から切り離して、一コマだけ抜き出して写真として見ようとすると、とても奇妙に見えるのだ。動画が要請する構図と、静止画が要請する構図は、まったく異なるものだということをここで再確認。この件は、もっと掘り下げる余地がある。
絵巻は、動画が要請する構図を採用しながらも静止している、というマージナルな存在であり、だからこそ絵巻の特徴をつぶさに観察することで、静止画(あるいは動画)の形式が暗黙のうちに要請し、わたしたちが盲目的に従っている文法のようなものを明らかにできるかもしれない、と思う。