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臆病にもほどがある

 スタイルはすでに思想である。ある思想を学ぶ(まねぶ)というのは、まずはある思想が世界を見る、世界に触れるそのスタイルに感応するということである。もうそういうアクセスの仕方しかできなくなるということである。その意味で、哲学はその語り口、その文体をないがしろにしてはいけないと、つよくおもう。
(『思考のエシックス―反・方法主義論』鷲田清一著 ナカニシヤ出版 2007年 p88から抜粋)

うえの文章は、語り口、文体について書かれたものだけれど、「もうそういうアクセスの仕方しかできなくなる」というところに、ドキっとした。

ある撮影スタイルに固定化することで、なにか可能性を逃してしまうような危機感を、うっすら感じていた。わたしが怖がっていたのはそういうことなのかもしれない。

「もうそういう見かたでしか、世界を見ることができなくなる」と。

ただ、最近はこうも思うようになった。
固定化せずに、更新し続ければいいのだ、と。

ある時点、ある時点で何らかのスタイルに着地したとしても、そこに留まらなかったらいい。

スタイルが固定化することを怖がってoutputを出せずにいるよりも、一旦、着地して、outputを出してみて、そこからまたあたらしく踏み出せばいい、と。

ここ数年の我が身をふりかえって、臆病にもほどがある、と思った。